2・この場所(1)
あれから眠れなかった。
うとうとすると夢を見る。大きく目を見開いたミドリの夢。ミドリは最後に何を見ただろう。いつも希望を見ようとしていたあの瞳。あの光。
機械的にいつもの動作をこなした。少し汚れの残る制服に着替え、顔を洗う。朝食は食べられない。何か言っている母親の声は、蚊の羽音のようにぶんぶんと耳障りで、手で追い払うのも面倒だ。
右足と左足のことだけ考えて歩いた。右肩が痛くてかばんが持ちにくかったが、どうしてそんなことになったのか忘れてしまった。どこもかも、ずっと前から痛かったような気がした。
歩いていても、まわりを見ることができなかった。雪煙をあげて崩れ落ちる家が見えてしまう、と思った。
学校へ着くのは、いつもより遅くなった。教師が来る時間ぎりぎりだ。
窓側の席から、碧がどうしたの、というように涼を見た。その問いかける瞳がミドリと重なって、涼はどうしたらいいのかわからなくなった。
荒れ果てて凍りついたあの世界と、きしんで歪むこの世界。ふたつの世界が、どこかでまだつながっている。
何か叫び出しそうだ、と思ったとき教師が来た。
「起立!」
当番の生徒が声をかける。生徒たちがいっせいに立ち上がる。涼の頭の中で、目を見開いたまま動かないミドリの顔が、脈打つように大きくなる。
ミドリは死んだ。
「……職員会議の決定で……」
教師が、朝の伝達事項を伝えている。
「今後、あのような事故が起きないように……」
ミドリは死んだ。
「……三階と四階の窓に鉄格子を……」
ミドリは死んだ。
「誰か、異議のある者?」
涼は、はっと我に返る。
生徒たちは、この担任の「口癖」に何の意味もないことを知っている。けれど、このひと言を添えるだけで、命令が合意の衣をまとう。
四月のある日、この言葉にまっすぐ手を上げた碧の姿が、一瞬見えた。
教師は、三年の生徒の死を「事故」と言った。かつて、中学で死んだ生徒の「事故」もあった。
死に至る環境はそのままに、物理的に学校では死ねないようにすると言っている。
ーーいい春になるといいね。
ミドリはそう言った。
鉄格子の中にも春は来るだろうか。それはいい春だろうか。
何かにひっぱられるように、涼は立ち上がる。
異議があります。
「霜村?」
教師は、不審そうに眉をひそめる。
異議があります。
涼は口を開いたが、言葉が出て来なかった。固いものが喉をふさいで息が苦しくなった。
「どうした」
「気分が悪いんです」
やっとそれだけ言うと、涼は教室を走り出た。退出の許可も求めなかった。
痛みや空虚や喪失感が体の奥の方からこみ上げて、それは熱いしずくになって両方の目からあふれ出した。涼は握りしめた拳をかんで走った。
三階分の階段を一気に駆け上がって、屋上の扉に続くすみに座り込んだ。両腕に顔を埋めて、そこで泣いた。
ミドリは死んだ。ミドリは死んで、僕たちは鉄格子に閉じ込められる。僕はいやだと言えなかった。言わなくちゃならなかったのに。何も声をあげないで、何も変えようともしないで、これから僕はどうやってミドリのあの瞳に応えていけばいい?
僕はバカだ。何年も前に兄ちゃんが言ったとおり。ずっとバカだった。
「霜村君、やっぱりここ……」
あとを追って来たらしい碧の声が尻つぼみになった。
「……大丈夫?」
涼は顔をそむける。碧は黙って立っている。
涼は、喉のところで何度も何かを飲み込み、うつむいたまま言った。
「ミドリ、死んだんだ」
碧が息を呑む気配がした。
「壊れた家の下敷きになって……」
あとが続けられなかった。気がつくと、碧が横に座って、涼の肩に手をのせていた。
「ね、大丈夫?」
「うん。……うん、大丈夫」
「わたし、薄情ね。別の世界で自分が死んじゃったのに、なんだか妙な気持がするだけ。……ごめんね」
涼は首を振る。あの世界のリョウが死んだと聞かされたとき、自分も特に悲しいとも思わなかった。
でも、ミドリは僕の友だちだった。
「保健室に行く? わたし、級長の様子見てきますって、出てきたのよ。今学期は養護係だから」
確かに調子はよくない。昨日あの男に痛めつけられたところはずきずきするし、ゆうべから何も食べていないし、ほとんど寝たような気がしない。
「ぐずぐずしてるわけにいかないね」
涼がなんとかそう言うと、碧が微笑むのがわかった。
「かまやしないわ」
涼は拳で目をこする。肩に置かれた碧の手があたたかい。そこでうずいていた痛みがやわらぐような気がした。




