1・別の場所(26)
雪が降っている。壊れた家が見える。つぶれた天井の、太い梁の下に何か見える……。
はっとして起き上がる。とたんに全身が痛んで記憶が蘇った。
もう真夜中だ。母親が夕食を知らせに来たような記憶はかすかにあるが、食べた記憶はない。返事すらしなかったように思う。みぞおちの痛みが胃をいっぱいにして何も入らないし、両親の顔も見たくはなかった。
眠っている間に何か夢を見たようだ。でも、どんな夢だったのか思いだせない。白っぽいもやが、夢の表面をおおっている。
机の前に座る。どうして右肩がこんなに痛むのかと一瞬いぶかり、それから思い出す。
【ネットサービス会員ナンバー235・霜村涼殿】
コンピューターを立ち上げると、注意を喚起するように赤い文字が点滅していた。
【お試しいただいている仮想英会話に、重大なバグがあることがわかりました。つきましては、これまで同プログラム起動のおりに自動的にダウンロードしていたメインシステムを、一時休止させていただきます。一日も早くプログラムを改善し、皆様の言語学習に役立つものとしたいと考えておりますので、ご理解くださいますよう。仮想英会話のモニターとなってくださいました皆様には、心からお礼申し上げます】
サービス休止?
それじゃ、あのドアは……ミドリの世界は……。
涼は、ぎこちなくFDをかぶる。
起動する。一瞬、周囲が灰色になった。
そして雪……。
雪だ。あの古ぼけた木のドアではなく、いきなり雪の世界だ。そして、いつものあの公民館の裏口ではない。夜ですらないようだ。灰色の空の向こうに明るさがある。昼間なのだ。
どうしたんだ? バグのせいなのか? 休止しているのに?
この世界の、この昼間の時間に、サービスが停止したのだろうか。
灰色と白の雪の世界の中で、厚着をした人々が一軒の家を解体している。
ミドリは、空き家になった家を壊して「たきぎ」にするのだと言っていた。人々は何か言い合っているようだが、その声は聞こえない。白黒の無声映画を見ているようだ。
これが「たきぎ拾い」なら、そして、今日公民館の前で見かけた人々と同じなら……。
あのとき、勇気を出して建物の正面にまわってみればよかった。
家を解体している人々の動きがあわただしくなった。音は何ひとつ聞こえないのに、家の中で何かが折れ、裂け、雪煙を上げながら屋根が落ち込むのが見えた。
屋根に載った雪の重みで家が崩れたのだろう。たきぎに取られて、支えの柱をなくした家が耐えきれなくなって、天井の梁が……。
唐突に、さっき見た夢の断片を思い出した。胸の底が冷たくなった。
あの下に何かあるはずだ。
あの下に、誰かいるはずだ。
「ミドリ!」
思わず声をあげていた。走ろうとして、自分の体は部屋の机の前にあることを思い出した。
倒れた家の真ん中で、人々が屋根瓦や雪を取りのけている。
太い梁の下に見えるカーキ色のコート。
涼は、両方のこぶしを握りしめる。操作グラブから伸びたワイヤーが手のひらにくいこんだ。
雪とほこりをかぶったミドリの顔が見えた。
胸の上を梁が横切っている。唇の端から流れる細い血の筋が、薄暗い世界の中で唯一鮮やかな色をしていた。
ミドリは大きく目を見開いていた。不意打ちをくらってびっくりした、というように。
なぜあたしが? と問いかけるように。
その睫に雪が舞い落ちた。
瞳には、もう希望の光はなかった。もう二度と、どんな光も浮かぶことはなかった。
不意に、世界が真っ暗になった。FDには何も映っていない。仮想英会話のプログラムは終了した。そして、世界が終了した。
涼は、FDをかぶったまま椅子に凍りついている。涼の世界はまだ続いている。




