1・別の場所(25)
帰り道、家の近くまで来て考える。
家に帰りたくない。どうして僕は、毎日律儀に家と学校の間を往復してるんだろう。
涼はきびすを返す。寄り道くらいしたっていい。
あの公民館へ行ってみようと思った。前に碧と行ったときは、最初に玄関のガラス戸をのぞきこんだのがまずかった。あれでは、中から丸見えだったろう。まっすぐ裏口へ向かえば、見とがめられることはないはずだ。
あのコンクリートの段を上がって、一番上に腰をおろす。そしたら頬杖をつく。いつもミドリがそうしているように。
ミドリが座っているところから見たら、何か明るいものが見えるかもしれない。ミドリの瞳に宿っている希望が見えるかもしれない。
公民館の周辺に、モスグリーンの制服の人影はなかった。涼は路地を通って裏口へまわり、段に座って、ひざにひじを載せて頬杖をついた。
ミドリが見ているのは、雪と暗闇の街だ。だけど、ミドリはそこに未来を見ようとしている。明日は今日よりよくなるはずだと思っている。
……ミドリは強いなあ。ミドリの強さはしなやかさなんだ。あんな状況でも明るいことを見つけて笑顔になれる、ああいうことが強さなんだ。
涼は息をついて背中を伸ばした。
そのとき、背中に何かぶつかった。裏口のドアが開いたのだ。
涼は、びくっとして立ち上がった。
タバコをくわえて出てきた男は、涼を見てしかめるように目を細めた。
その顔に見覚えがあった。
「おまえ、何してんだよ、こんなとこで」
きしるような声が言った。
あいつだ。
この前、洸のことで来た育成局の男の連れだ。とかげのような白いところの多い目で涼を見たあの男。ファスナーがたくさんついた、体にぴったり合う黒いジャンパーとズボンを身につけ、銀色の鋲を打ったブーツを履いている。あのときは気にとめるゆとりがなかったが、思いのほか背が高い。
男はドアを閉めてそこにもたれ、タバコの煙を吐き出した。
「優等生のお坊ちゃんが、こんなとこでこそこそ、何の用がある? そうか。タバコがほしいかよ」
涼は首を振る。
「もう帰る」
向きを変えたときには、男はもう涼の前にまわって路地の出口をふさいでいた。
「タバコの一本や二本、言いつけやしねえって。いつもいつも、育成局の言うこときいて『犬』やってるわけじゃねえからよ」
「犬」。そう呼ばれる者がいるのだ。涼はなんとなく納得する。
「タバコはいらない」
涼が言うと、男は珍しそうに涼を見た。
「俺は、ここの団のOBなんだ。ときどきチビどもにヤキ入れに来んのさ。おまえもヤキ入れてもらいてえか」
涼は、また首を振る。
すると、いきなり胸ぐらをつかまれて、体を引きずり上げられた。男のジャンパーのファスナーが制服をこすった。
「ふざけんなよ、え?」
男は、歯の間からしゃべった。ハッカ入りタバコの臭いのする息が、涼の顔にかかった。こわいと思った。けれど、その底に怒りもあった。こいつにこんな扱いを受けるいわれはない。
胸ぐらを締め上げている男の手首をつかんだ。
「放してくれ」
男がきゅっと目を細めた。次の瞬間、みぞおちに激しい一撃をくらって、涼は息が止まった。
苦い液がのどのところまで込み上げてきて、ひざの力が抜けた。うずくまって殴られたみぞおちをかばいたかったが、男は涼の胸ぐらをつかんで吊り上げたまま、そうはさせなかった。
「優等生の坊やにしちゃ、上出来だな」
男は、頭の中にしっかり焼き付けておこうとでもいうように、瞬かない目で涼の顔をじっと見た。
目がかすんだ。不意にあたりに雪が降りはじめた。頭の中まで真っ白になりそうなのをこらえて、ぎゅっと奥歯をかみしめる。
「おまえなんか、どうにでもできるんだぜ」
しぶい果物の後味のような、きしる声が言う。
「社会不適応だって報告して、精神病院に閉じ込めて去勢しちまおうが、危険な思想の持ち主だって、脳手術をしちまおうが、当局次第なんだからな。んで、当局に報告するのはこの俺ってことだ」
男の顔にも雪が降る。涼は苦痛に身をよじらせながら、そこから目をそらすまいとした。
「あいつ、一年後輩だったんだぜ。目障りなやつだった」
男の言葉は唐突で、涼は彼が何を言い出したかわからない。
「自分が正しいと思ってやがんのさ。バカなやつ。教師に逆らってなんの得がある? 教師のいうことなんざ、きくふりしといて陰で舌出してりゃいいのさ。成績は俺よりちっとばか良かったかもしんねえけど、賢く生きてんのは俺の方だ。更生キャンプ行きなんざ、負け犬だぜ」
兄ちゃんのことだ。こいつは、兄ちゃんの一級上にいたのか。
「勉強ができるってのは得だよな」
男の声がすごむ。
「おまえみたいな弱虫が自由にしてられるのは、ややっこしい数字だの、なんかの記号だの、頭に詰め込むのが人よりちっとばかし得意だからだ。自分じゃけっこう役に立つつもりでいるんだろ」
男が手を放す。涼は別の世界の雪の上に、現実世界の乾いた土の上にくずおれる。
「役に立つのは、結局俺たちみたいな『賢い』生き方をしたやつだ。頭じゃなくて、常識で生きてるやつらなのさ」
目の端で、ブーツの鋲がきらめいた。
「おまえら兄弟、大っ嫌いだ」
きしむ声とともに、肩を蹴りつけられた。腕がしびれ、そのあとぐわんと痛みがきた。肩が動かない。動かすのがこわい。
次の一撃に備えて体を固くしたとき、ブーツが向きを変えるのが見えた。何かを蹴飛ばすような、ぱん、という音がした。そして、ドアの閉まる音が聞こえた。
ああ、よかった。
涼は、地べたに顔をつけて荒い息を吐く。みぞおちの痛みは鈍痛に変わっている。しびれたようだった肩は、今は脈打つように痛みがふくらんだり縮んだりしている。痛いけれど、動かすことはできそうだ。
初めて受けた暴力に、脳がしびれたようになっていた。腕力の強い者、暴力をふるうことにためらいのない者が、とりあえず自分を通す。その不条理を体が思い知り、けれど頭は受け入れていない。
だって、腕力は強さじゃない。……強いっていうのは……。
やっと体を起こす。いつまでもここにはいられない。
通学かばんを拾う。靴底のギザギザの跡がついている。男が中に入る前に蹴ったのは、このかばんだったらしい。
路地からよろめき出たとき、建物の表側にいくつかの人影を見た。着膨れた、雪まみれのおぼろな姿だ。人数も性別もわからない。何人か一緒になって、細長い寝袋のようなものを引きずっている。
たきぎ拾い? ミドリもあの中にいるのだろうか。
涼には、建物の正面にまわる気力がなかった。玄関のガラス扉の中に、あの男がいるかもしれない。
秋の陽射しと幻の雪で、通りはさざなみの立つ水面のようにちらついている。
「遅かったのね」
家に着くと、母親が待ちかねたように玄関に出てきた。
「何をしてたの……涼! その制服! そんなに汚れて、どこで……」
「なんでもない」
「なんでもないって。何してきたの? 言えないの?」
母親と話すのが面倒くさい。腹も、肩も、頭も痛い。
涼は、母親のわきをすりぬける。
「なんでもない。母さんには関係ない」
「関係ないわけないでしょう。制服をそんなに汚すなんて何をしたの。お父さんの働いたお金で買った制服じゃないの。あんたのものじゃありません。それをこんなに……」
「もう黙ってよ」
母親は、傷ついた表情を浮かべる。
「あんたがそんなふうじゃ、お父さんがなんて言うか……。お兄ちゃんのことだけで、心配はたくさんよ。またわたしが怒られる……」
「黙れったら!」
涼はどなって、自分の声に驚き、そのまま二階に駆け上がる。あちこちが痛いけれど、駆け上がる。
どうしようもない何かが自分の中にある。母親を殴りつけて黙らせたら、気分はよくなるだろうか。自分が暴力をふるう息子だったら、母親は黙っているだろうか。そうなったら満足だろうか。
「殴られる」ということは、今日身にしみてわかった。
そして、「殴りたい」という衝動も少しわかる気がした。
でも、僕はあんなやつと同じにはならない。兄ちゃんを殴ったやつらの同類にはなりたくない。僕は、社会科準備室で生徒を殺す教師なんかじゃない。
ないはずだ。
涼は、ベッドに体を投げ出して突っ伏す。枕の中に咆哮する。




