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春の翼  作者: Mariko
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24/41

1・別の場所(23)

 その晩、仮想世界のいつものドアを開ける前に、涼は何度か深呼吸した。落ち着いて、普段と変わりなく見えるといい、と思った。


 今日のことをミドリに話したかった。それでも、恐怖の滓や無力感のかけらを見せたくはなかった。


 コンクリートの段の上のミドリは、毛布の中に埋まっている。いつもと違う雰囲気を感じて空を見ると、灰色と白のミドリの世界に、何か鮮やかな色が雪に混じってちらちらしていた。


 涼は目を細めた。


 これはなんだろう。


 仮想英会話の街の色だ、とふと気づいた。ミドリの世界の「現実」に重なると、安っぽい着色写真のような不自然な色だ。


「涼」

 ミドリが呼んでいる。

「どうしたの? 空に何か見える?」

 涼は、あわててミドリの方を見る。

「なんでもない」


 自分の世界にミドリの世界が重なることがあるように、今はこの場所に仮想の世界が重なっている。


 仮想の街がここに侵入している? いつか、この仮想の色が広がっていったら……この世界に来られなくなるかもしれない?


 涼は、ぎゅっと不安を押し殺した。


「そう? ……でも、なんだか具合でも悪いみたい。本当になんでもないの?」


 自分より疲れて、空腹で、寒さに耐えているはずのミドリに気遣われて、涼はきまりが悪くなる。

「本当いうと、なんでもなくはないんだ。……ああ、でも、僕のことじゃなくて」

 涼は、ちょっと笑ってみせた。口角を上げることができた。

「本当はミドリに聞いてほしかった。今日あったこと。……兄ちゃんのこと」


 涼は、考えながら口を開く。話していると、しだいに言葉が出やすくなってくる。


 ミドリはしばらく黙っていた。


「大変なのね」

「うん」


 兄があんな芝居がかったことをした意味が、今ならわかる。国防隊に入るわけにはいかないのだ。いったん入隊したら、洸の自由意志でやめられるものではないに違いなかった。

 更生キャンプに送られるときも、行くかどうかを選べなかった。あの男の言う「刑務所ではない」が本当なら、どうして洸本人や家族に、他の方法を選択する余地がなかったのか。


「お兄さんに聞いたアドレスにメールを送るつもり?」

「わからない。僕の使ってるパソコンは、塾以外にはアクセスできないんだ。自由に使えるパソコンなんかない。学校のコンピューターからならメールできるかもしれない。情報処理の授業でやったことがあるから。でも、学生カードを入れないと動かないし、カードを使えば記録が残る」


「碧はどう? 碧の家にパソコンない? あたしの両親は、親にしちゃまともな方だったから、碧の親もいい人かもしれない」

 涼は首を振る。

「個人の家にパソコンなんて、まずない。それに、このこと野見山には話せないよ。特にメールのことは。まさかと思うけど、何か迷惑をかけることになるかもしれないし」

「ふうん」


 ……だから、ミドリにしか話せない。ひとりで抱え込むのはつらいから。そうして僕は、疲れて寒くて空腹で、もしかしたら滅びる世界で一生懸命生きてるミドリに甘えている。


 ミドリが、毛布の中で頬杖をついた。そして、思い出したように笑う。

「涼がピーターで、お兄さんがフック? いい役もらったじゃない」

 涼がとまどうのを見て、ミドリが言う。

「ほら、メールの名前。ピーター・パンとフック船長でしょ」

「ピーター・パン」


 言ってはみたものの、涼にはよくわからない。何かのおとぎ話だったかもしれない。小学校に入る前なら、「情操を育てる」という目的で、そういう話を聞かされることもたまにはあった。


「イギリスのファンタジーよ。アニメにもなってる。見たことない? アニメの中の『君も飛べるよ』っていう歌が好きだった。あたしがあの中の役をもらうとしたら、ティンカー・ベルがいいな」

「ティンカー・ベル?」

「緑色に光る、妖精の女の子よ。一度死んじゃうんだけど、妖精の存在を信じる子どもたちが彼女を生き返らせてくれる」


 ミドリの目が輝いた。

「あたし、本でその場面を読んだとき、本気で手をたたいたのよ。……つまりね、ピーターが読者に呼びかけるわけ。妖精を信じているなら、みんな、拍手してくれって。拍手してくれる子がたくさんいたら、ティンカー・ベルが生き返るから」


 ふっと、力ない笑みが浮かんだ。

「本気で手をたたいたのよ……」



「霜村君!」

 碧に呼び止められた。情報処理の授業のために、コンピューター実習室へ移動するところだ。

 碧は追いついてきて横に並んだ。守るようにぎゅっとテキストを抱えて、涼を見上げる。

「昨日帰るとき、わたし、変な男の人に、霜村君のお兄さんのこと聞かれた」


 涼は、思わず立ち止まる。碧はかまわず先に歩きながら、首だけ涼の方へ向けた。

「歩いてよ。歩きながら話すから」

 涼は、二、三歩走って碧に追いつく。


「何を聞かれた? 誰だったの?」

「青少年育成局の者だって言ってた。たぶん、その通りなんでしょ。最近、霜村君から何かお兄さんのこと聞いてないかって言うの」

 涼は、黙って廊下を見つめながら歩いた。


「聞いてないって言ったわ。本当だもの」

 碧は涼を見た。

「お兄さんが更生キャンプを出たってこと、わたし、昨日その人から聞いた」


 実習室は、廊下を曲がればもうすぐだ。その角の天井に灰色の箱がある。監視カメラだ。


「お兄さん、帰って来たの? わたしなんかに、何を聞きたかったのかな」

 涼はちょっとカメラを見上げ、それから碧を見た。何を言ったらいいのかわからない。


 育成局の人間が接触したのは碧だけなのだろうか。碧とは、たった一度、あの公民館へ行った日に一緒に帰ったきりなのに。


「やっぱり、何も言わなくていい」

 碧が、あわてたように首を振った。

「なにかはあったのよね? だから育成局の人が来たのよね? でも、話さなくていい。今のままなら、誰に聞かれたって『わたしは何も聞いてません』って言えるもの。わたし、おしゃべりだから、知らない方がいいのよ」


 涼は目を伏せる。碧はたしかによくしゃべる方だけれど、黙っていてほしいことを言いふらしたりはしない。だからこそ、何も言えない。


「だけど、何があっても、わたし、霜村君のお兄さんのこと、いい人だって思ってるから。ね」

 碧が言う。コンピューター実習室の前だ。


「ごめん」

 涼がやっとそれだけ言うと、碧はかぶりを振った。

「霜村君があやまることじゃないよ」


「ありがとう」

 涼は言った。

 碧が、ふわっと笑顔になった。


 そうか。「ごめん」じゃないんだ。「ありがとう」でいいんだ。

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