1・別の場所(23)
その晩、仮想世界のいつものドアを開ける前に、涼は何度か深呼吸した。落ち着いて、普段と変わりなく見えるといい、と思った。
今日のことをミドリに話したかった。それでも、恐怖の滓や無力感のかけらを見せたくはなかった。
コンクリートの段の上のミドリは、毛布の中に埋まっている。いつもと違う雰囲気を感じて空を見ると、灰色と白のミドリの世界に、何か鮮やかな色が雪に混じってちらちらしていた。
涼は目を細めた。
これはなんだろう。
仮想英会話の街の色だ、とふと気づいた。ミドリの世界の「現実」に重なると、安っぽい着色写真のような不自然な色だ。
「涼」
ミドリが呼んでいる。
「どうしたの? 空に何か見える?」
涼は、あわててミドリの方を見る。
「なんでもない」
自分の世界にミドリの世界が重なることがあるように、今はこの場所に仮想の世界が重なっている。
仮想の街がここに侵入している? いつか、この仮想の色が広がっていったら……この世界に来られなくなるかもしれない?
涼は、ぎゅっと不安を押し殺した。
「そう? ……でも、なんだか具合でも悪いみたい。本当になんでもないの?」
自分より疲れて、空腹で、寒さに耐えているはずのミドリに気遣われて、涼はきまりが悪くなる。
「本当いうと、なんでもなくはないんだ。……ああ、でも、僕のことじゃなくて」
涼は、ちょっと笑ってみせた。口角を上げることができた。
「本当はミドリに聞いてほしかった。今日あったこと。……兄ちゃんのこと」
涼は、考えながら口を開く。話していると、しだいに言葉が出やすくなってくる。
ミドリはしばらく黙っていた。
「大変なのね」
「うん」
兄があんな芝居がかったことをした意味が、今ならわかる。国防隊に入るわけにはいかないのだ。いったん入隊したら、洸の自由意志でやめられるものではないに違いなかった。
更生キャンプに送られるときも、行くかどうかを選べなかった。あの男の言う「刑務所ではない」が本当なら、どうして洸本人や家族に、他の方法を選択する余地がなかったのか。
「お兄さんに聞いたアドレスにメールを送るつもり?」
「わからない。僕の使ってるパソコンは、塾以外にはアクセスできないんだ。自由に使えるパソコンなんかない。学校のコンピューターからならメールできるかもしれない。情報処理の授業でやったことがあるから。でも、学生カードを入れないと動かないし、カードを使えば記録が残る」
「碧はどう? 碧の家にパソコンない? あたしの両親は、親にしちゃまともな方だったから、碧の親もいい人かもしれない」
涼は首を振る。
「個人の家にパソコンなんて、まずない。それに、このこと野見山には話せないよ。特にメールのことは。まさかと思うけど、何か迷惑をかけることになるかもしれないし」
「ふうん」
……だから、ミドリにしか話せない。ひとりで抱え込むのはつらいから。そうして僕は、疲れて寒くて空腹で、もしかしたら滅びる世界で一生懸命生きてるミドリに甘えている。
ミドリが、毛布の中で頬杖をついた。そして、思い出したように笑う。
「涼がピーターで、お兄さんがフック? いい役もらったじゃない」
涼がとまどうのを見て、ミドリが言う。
「ほら、メールの名前。ピーター・パンとフック船長でしょ」
「ピーター・パン」
言ってはみたものの、涼にはよくわからない。何かのおとぎ話だったかもしれない。小学校に入る前なら、「情操を育てる」という目的で、そういう話を聞かされることもたまにはあった。
「イギリスのファンタジーよ。アニメにもなってる。見たことない? アニメの中の『君も飛べるよ』っていう歌が好きだった。あたしがあの中の役をもらうとしたら、ティンカー・ベルがいいな」
「ティンカー・ベル?」
「緑色に光る、妖精の女の子よ。一度死んじゃうんだけど、妖精の存在を信じる子どもたちが彼女を生き返らせてくれる」
ミドリの目が輝いた。
「あたし、本でその場面を読んだとき、本気で手をたたいたのよ。……つまりね、ピーターが読者に呼びかけるわけ。妖精を信じているなら、みんな、拍手してくれって。拍手してくれる子がたくさんいたら、ティンカー・ベルが生き返るから」
ふっと、力ない笑みが浮かんだ。
「本気で手をたたいたのよ……」
「霜村君!」
碧に呼び止められた。情報処理の授業のために、コンピューター実習室へ移動するところだ。
碧は追いついてきて横に並んだ。守るようにぎゅっとテキストを抱えて、涼を見上げる。
「昨日帰るとき、わたし、変な男の人に、霜村君のお兄さんのこと聞かれた」
涼は、思わず立ち止まる。碧はかまわず先に歩きながら、首だけ涼の方へ向けた。
「歩いてよ。歩きながら話すから」
涼は、二、三歩走って碧に追いつく。
「何を聞かれた? 誰だったの?」
「青少年育成局の者だって言ってた。たぶん、その通りなんでしょ。最近、霜村君から何かお兄さんのこと聞いてないかって言うの」
涼は、黙って廊下を見つめながら歩いた。
「聞いてないって言ったわ。本当だもの」
碧は涼を見た。
「お兄さんが更生キャンプを出たってこと、わたし、昨日その人から聞いた」
実習室は、廊下を曲がればもうすぐだ。その角の天井に灰色の箱がある。監視カメラだ。
「お兄さん、帰って来たの? わたしなんかに、何を聞きたかったのかな」
涼はちょっとカメラを見上げ、それから碧を見た。何を言ったらいいのかわからない。
育成局の人間が接触したのは碧だけなのだろうか。碧とは、たった一度、あの公民館へ行った日に一緒に帰ったきりなのに。
「やっぱり、何も言わなくていい」
碧が、あわてたように首を振った。
「なにかはあったのよね? だから育成局の人が来たのよね? でも、話さなくていい。今のままなら、誰に聞かれたって『わたしは何も聞いてません』って言えるもの。わたし、おしゃべりだから、知らない方がいいのよ」
涼は目を伏せる。碧はたしかによくしゃべる方だけれど、黙っていてほしいことを言いふらしたりはしない。だからこそ、何も言えない。
「だけど、何があっても、わたし、霜村君のお兄さんのこと、いい人だって思ってるから。ね」
碧が言う。コンピューター実習室の前だ。
「ごめん」
涼がやっとそれだけ言うと、碧はかぶりを振った。
「霜村君があやまることじゃないよ」
「ありがとう」
涼は言った。
碧が、ふわっと笑顔になった。
そうか。「ごめん」じゃないんだ。「ありがとう」でいいんだ。




