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春の翼  作者: Mariko
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23/41

1・別の場所(22)

「涼君」

「はい」

 涼は、男の目の二センチくらい横を見ながら答えた。鎮まりかけていた心臓が、また激しく鳴りだした。

「彼を知ってたかな?」

 若い男に向かって手をふる。若い男は、ちらりと上目遣いに涼を見て、また無関心な態度に戻った。


「いいえ」

「彼の方は君を知ってる。今日、学校のそばで見たからな。君たちを」


 胃の底を、冷たい手でつかまれたような気がした。


「下校の途中、兄さんに会ったね?」

 口の中がからからに乾いて、言葉がなかなか出てこない。

「どうかね。答えなさい」


 涼はうなずく。

「はい」

 横で、父親がびくっと体を動かすのがわかった。


 ごめん、兄ちゃん。


「何か渡されたそうじゃないか」

 嘘をついたって無駄だ、と思ったとたん、兄のしたことの意味がわかった。


 ーー絶対見ないで捨てろ。


 あの紙。

 

 涼は、つばを飲み込む。


「紙を」

「紙?」

「でも、捨ててしまいました」

「捨てた?」

「歩道のゴミ缶の中に」

「なぜ捨てた? 何が書いてあった?」

 涼は首を振る。

「わかりません。見なかったから」

 本当のことを言った。


 兄ちゃんは、こうなることを考えていたに違いない。僕がいくら嘘をついても無駄だとわかって、あの紙をよこしたんだ。あれは白紙だったかもしれない。それでもよかったんだ。


「霜村洸と、何を話した?」

「何も……ただ、会いたかったって。あっという間のことで……」

「会いたかった。それから?」

「……僕に、自分の頭で考えろって」

 男は、ふん、というように鼻を鳴らす。


「そして、紙をよこした?」

「そうです」

「それを君は見もしないで捨てた。霜村洸は、何が書いてあると言ったのかね? 君は興味がなかったのかね?」

「兄は何も言わなかった。僕は……」

「君は?」

「僕は、こわかったんです」

「こわかった? 何が?」

「ああいう状況が。あんなふうに出会うとは思っていなかった」


 ver@ja.in


 頭の中に、アドレスがネオンのように浮かび上がった。あまり鮮やかなので、この男は自分の目を通して頭の中の記憶を読み取るに違いない、と涼は思った。


「その紙に、何か大切なことが書いてあるとは思わなかったのかね?」

「わかりません。僕は……」

「君はこわかった。しかし、なぜ彼が君にそんなものを渡したのか、考えるくらいくらいはしただろう。ふん、君の頭でね。書いてあったのは、住所か電話番号、どっちだろうな?」


 ver@ja.in


「わかりません」

「そうか。君は見なかったんだものな」


 見ないでいてよかった。


 男は、わざとらしく腕時計を見る。

「もう、清掃車があのあたりのゴミを集めてしまっている。遅かったな」


 そして、するりと笑顔をまとった。

「君は優等生で人望もあつい。兄さんと関わるまいとする君の態度は正しい。このままなら、君は確実にエリートだからな」

 笑顔のまま、眉をひそめる。悪い子を叱るときの大人のように。

「けれど、もう少し賢明にふるまうべきだったな。紙のことはさておくとしよう。私は君が嘘をついているとは思わない。だが、兄さんに会ったことをご両親に話すことはできただろう。なぜそうしなかった?」

 涼は黙っていた。


「それとも、兄さんに口止めされたか? 君たちは、しばらくの間立ち話をしていたそうじゃないか」

「いいえ」

 涼は、びっくりして思わずはっきりと答えた。そういえば、洸は口止めらしきことは何ひとつ言わなかった。


「なら、どうしてかね」

「僕は……どう言えばいいか思いつかなかった」

「簡単なことじゃないか。『兄さんに会った』と言えばいいんだ」


 涼は、こぶしをぎゅと握りしめる。

「……現実じゃないような気がして……。いきなり現れた兄は……なんだか別の世界から来たような気がした……」

 あのとき、兄の後ろ姿にかぶさって、別の世界の雪が降っていた。


 男は、いくじなしを見るような、傲慢な視線を涼に据えた。

「今度こんなことがあったら、君はどうするかわかっているね」

 答えなくてはならなかった。


「わかっています」

「よし」

 男は立ち上がって、連れを振り返った。

「失礼しよう」


「あの……」


 どうして口を開いてしまったのかわからない。男も、両親も、意外な顔をして涼を見た。ほとんどこの場に参加していないも同然だった例の若い男も、しばらくの間顔を上げて、正面から爬虫類のような目で涼を見た。


「なんだね」

 男は、体をめぐらして涼に向き合った。


「あの、もし兄が捕まったら、兄はどうなるんですか」

 男の目が落胆したように光を失った。涼が最後に改心して、何か打ち明け話をすると思っていたのかもしれない。


「『捕まる』という言い方は不適当だな。君は、兄さんが何か悪いことをしたと思っているのかね?」

 涼は、黙って男を見つめた。

「さっきも言ったが、更生キャンプは刑務所ではない。国防隊に入るにしても、あの母体は善意の愛国者なのだから徴兵されるわけではない。霜村洸は、我々から見て好ましくない行動をとっているが、犯罪を犯したわけではない。『捕まる』などと、軽々しく言うものじゃない。わかるね」


 うなずいてはいけないような気がして、涼は必死で頭を男の方に向けたまま、動かさずにいた。


「もし彼が保護されれば、国防隊に入るよう『説得』して、入隊という運びになる。それを拒むなら、最悪の場合、ご両親の『同意』を得て、脳に外科手術を施し、反社会的な行動がとれないようにすることもある。いずれも、あくまでも本人の意思、保護者の同意に基づくものだ。強制してどこかに閉じ込めたり、行動を制限したりすることはあり得ない。いいね」

 男の顔が近づいてくる。

「いいね」

 涼は、うなずいてしまう。


「社会の秩序が第一だ。ひとりひとりが勝手なことをしていては、社会は進歩しない。霜村洸は、まだ大人としてのものの考え方ができないんだ。私としては、彼がこれからでも成長してくれることを願っているよ」



 男たちが出て行くと、父親が涼にくってかかった。

「なぜ洸のことを言わなかった? 親に恥をかかせやがって……」

「あなた、もう……」


 父親の怒声と母親の泣き声を背に、涼は早足で階段を上がった。そのままトイレに飛び込んで吐いた。


 両親のどちらも、洸が元気そうだったか、どんな様子だったか聞かなかった。

 何かがのどにつかえていた。それが苦しくて涙がにじんだ。

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