1・別の場所(22)
「涼君」
「はい」
涼は、男の目の二センチくらい横を見ながら答えた。鎮まりかけていた心臓が、また激しく鳴りだした。
「彼を知ってたかな?」
若い男に向かって手をふる。若い男は、ちらりと上目遣いに涼を見て、また無関心な態度に戻った。
「いいえ」
「彼の方は君を知ってる。今日、学校のそばで見たからな。君たちを」
胃の底を、冷たい手でつかまれたような気がした。
「下校の途中、兄さんに会ったね?」
口の中がからからに乾いて、言葉がなかなか出てこない。
「どうかね。答えなさい」
涼はうなずく。
「はい」
横で、父親がびくっと体を動かすのがわかった。
ごめん、兄ちゃん。
「何か渡されたそうじゃないか」
嘘をついたって無駄だ、と思ったとたん、兄のしたことの意味がわかった。
ーー絶対見ないで捨てろ。
あの紙。
涼は、つばを飲み込む。
「紙を」
「紙?」
「でも、捨ててしまいました」
「捨てた?」
「歩道のゴミ缶の中に」
「なぜ捨てた? 何が書いてあった?」
涼は首を振る。
「わかりません。見なかったから」
本当のことを言った。
兄ちゃんは、こうなることを考えていたに違いない。僕がいくら嘘をついても無駄だとわかって、あの紙をよこしたんだ。あれは白紙だったかもしれない。それでもよかったんだ。
「霜村洸と、何を話した?」
「何も……ただ、会いたかったって。あっという間のことで……」
「会いたかった。それから?」
「……僕に、自分の頭で考えろって」
男は、ふん、というように鼻を鳴らす。
「そして、紙をよこした?」
「そうです」
「それを君は見もしないで捨てた。霜村洸は、何が書いてあると言ったのかね? 君は興味がなかったのかね?」
「兄は何も言わなかった。僕は……」
「君は?」
「僕は、こわかったんです」
「こわかった? 何が?」
「ああいう状況が。あんなふうに出会うとは思っていなかった」
ver@ja.in
頭の中に、アドレスがネオンのように浮かび上がった。あまり鮮やかなので、この男は自分の目を通して頭の中の記憶を読み取るに違いない、と涼は思った。
「その紙に、何か大切なことが書いてあるとは思わなかったのかね?」
「わかりません。僕は……」
「君はこわかった。しかし、なぜ彼が君にそんなものを渡したのか、考えるくらいくらいはしただろう。ふん、君の頭でね。書いてあったのは、住所か電話番号、どっちだろうな?」
ver@ja.in
「わかりません」
「そうか。君は見なかったんだものな」
見ないでいてよかった。
男は、わざとらしく腕時計を見る。
「もう、清掃車があのあたりのゴミを集めてしまっている。遅かったな」
そして、するりと笑顔をまとった。
「君は優等生で人望もあつい。兄さんと関わるまいとする君の態度は正しい。このままなら、君は確実にエリートだからな」
笑顔のまま、眉をひそめる。悪い子を叱るときの大人のように。
「けれど、もう少し賢明にふるまうべきだったな。紙のことはさておくとしよう。私は君が嘘をついているとは思わない。だが、兄さんに会ったことをご両親に話すことはできただろう。なぜそうしなかった?」
涼は黙っていた。
「それとも、兄さんに口止めされたか? 君たちは、しばらくの間立ち話をしていたそうじゃないか」
「いいえ」
涼は、びっくりして思わずはっきりと答えた。そういえば、洸は口止めらしきことは何ひとつ言わなかった。
「なら、どうしてかね」
「僕は……どう言えばいいか思いつかなかった」
「簡単なことじゃないか。『兄さんに会った』と言えばいいんだ」
涼は、こぶしをぎゅと握りしめる。
「……現実じゃないような気がして……。いきなり現れた兄は……なんだか別の世界から来たような気がした……」
あのとき、兄の後ろ姿にかぶさって、別の世界の雪が降っていた。
男は、いくじなしを見るような、傲慢な視線を涼に据えた。
「今度こんなことがあったら、君はどうするかわかっているね」
答えなくてはならなかった。
「わかっています」
「よし」
男は立ち上がって、連れを振り返った。
「失礼しよう」
「あの……」
どうして口を開いてしまったのかわからない。男も、両親も、意外な顔をして涼を見た。ほとんどこの場に参加していないも同然だった例の若い男も、しばらくの間顔を上げて、正面から爬虫類のような目で涼を見た。
「なんだね」
男は、体をめぐらして涼に向き合った。
「あの、もし兄が捕まったら、兄はどうなるんですか」
男の目が落胆したように光を失った。涼が最後に改心して、何か打ち明け話をすると思っていたのかもしれない。
「『捕まる』という言い方は不適当だな。君は、兄さんが何か悪いことをしたと思っているのかね?」
涼は、黙って男を見つめた。
「さっきも言ったが、更生キャンプは刑務所ではない。国防隊に入るにしても、あの母体は善意の愛国者なのだから徴兵されるわけではない。霜村洸は、我々から見て好ましくない行動をとっているが、犯罪を犯したわけではない。『捕まる』などと、軽々しく言うものじゃない。わかるね」
うなずいてはいけないような気がして、涼は必死で頭を男の方に向けたまま、動かさずにいた。
「もし彼が保護されれば、国防隊に入るよう『説得』して、入隊という運びになる。それを拒むなら、最悪の場合、ご両親の『同意』を得て、脳に外科手術を施し、反社会的な行動がとれないようにすることもある。いずれも、あくまでも本人の意思、保護者の同意に基づくものだ。強制してどこかに閉じ込めたり、行動を制限したりすることはあり得ない。いいね」
男の顔が近づいてくる。
「いいね」
涼は、うなずいてしまう。
「社会の秩序が第一だ。ひとりひとりが勝手なことをしていては、社会は進歩しない。霜村洸は、まだ大人としてのものの考え方ができないんだ。私としては、彼がこれからでも成長してくれることを願っているよ」
男たちが出て行くと、父親が涼にくってかかった。
「なぜ洸のことを言わなかった? 親に恥をかかせやがって……」
「あなた、もう……」
父親の怒声と母親の泣き声を背に、涼は早足で階段を上がった。そのままトイレに飛び込んで吐いた。
両親のどちらも、洸が元気そうだったか、どんな様子だったか聞かなかった。
何かがのどにつかえていた。それが苦しくて涙がにじんだ。




