1・別の場所(21)
家に帰ると父親がいた。これは珍しいことだ。母親は、悪い知らせのように声をひそめて言った。
「洸が、今日帰ってくるのよ」
涼は、母親の顔を見る。
「キャンプから連絡があったのよ。ここに帰ってくるのよ」
嘘だ。ここには帰ってこない。それとも、嘘なのは僕の記憶だろうか。僕は学校の帰りに、別の世界の兄ちゃんに会ったんだろうか。
「……いつ?」
「お夕飯のころまでにはね。ねえ、あんた、今日は塾、録画にしておいてもいいでしょう? 久しぶりに兄さんに会うんだもの、一日くらい、ね?」
涼はあいまいにうなずいて、そのまま二階に上がる。
父さんも母さんも不安なんだ。自分たちだけじゃ、兄ちゃんといられないんだ。でも、兄ちゃんは帰ってこない。帰ってこないはずなんだ。
涼は、部屋のドアを後ろ手に閉め、よりかかって目を閉じた。校門を出てから今までの間に、長い時間がたったような気がした。
テーブルの上には、料理が食べるばかりになっている。いつもの夕食の時間はとっくにすぎていた。
玄関のチャイムが鳴った。
母親が、飛び上がるように立った。涼は、ぎゅっと椅子の座板を握りしめる。
兄ちゃん? そんなら、帰ってきたんだ。学校の帰り道でのことは、嘘になったんだ。
腹立たしいような、ほっとしたような気持がごちゃまぜになる。顔を上げると、玄関前を映している壁のモニターに、見知らぬ男の顔が見えた。
母親の指は、凍りついたようにインターホンのボタンに載っている。
「更生キャンプから要請を受けて来ました。青少年育成局のものです」
スピーカーから、無機質な声が聞こえた。
「霜村洸のことです。入れていただきたいのですが」
男は、画面に映るように身分証を示す。
「……はい。はい、ただいま」
母親が、よろめくように玄関に出て行く。ドアが開く音、何か話す声が聞こえる。
やがて、母親が手をよじり合わせながら戻ってきた。
「わたしたちにお話があるんですって。……涼、あんたにも」
頭の中が真っ白になった。
「涼、ぐずぐずするな」
父親のうわずった声で、かえって落ち着いた。
僕より父さんの方がおびえてる。
涼は、息を吸って立ち上がる。
訪問者はふたり。応接間にいた。モニターに映っていた中年の男と、くだけた服装の若い男だ。ふたりとも、自分の家のようにくつろいだ様子で肘掛け椅子に座っている。若い男の方は、三人が入っていっても顔も上げなかった。
両親は、自分たちの家のソファに小さくなって腰をおろした。少しためらって、涼も結局ソファの端に座った。
中年男が三人を見まわし、標的を定めたかのように、父親に目を据えた。
「霜村洸は帰って来ましたか」
父親は首を振る。
「いや、まだです。待ってるんですが」
「いささか手違いがありましてね」
男の目は瞬きしない。
「彼は、キャンプの職員とここへ戻ってくるはずだった。けれど、何かの行き違いがあって、単独帰宅許可証が出されてしまった。そして、キャンプの守衛がそれを見て、彼をひとりで行かせてしまいました」
「ひとりで……」
父親が力なく繰り返すと、男はうなずいた。
「家族が迎えにくる入所者もいるんですがね」
男は、石の入った雪玉をぶつけるように、両親にそう言った。
「お知らせしてなかったが、彼は、今夜は家族と過ごすことができるけれど、明日からは国防隊に入隊することになっていたんです」
国防隊。文字通り、国を防衛するために志願してきた青年たちの組織だと聞いている。衣食住は保証されるが、報酬は低いボランティアに近い団体で、彼らは純粋に国のために働くことに喜びを見出しているのだそうだ。
大東亜戦争が終わって、日本は「軍隊」というものをなくした。あのような悲惨な戦争は二度としない。だから軍隊は必要ない、ということだった。
朝鮮戦争のころだったそうだ。ある若手の国会議員が、守りのない国は鍵をかけない家と同じで、泥棒に入られてもしかたがない、と主張して、それに賛同する動きが出てきた。そして、その国会議員と若者たちが中心となって「自警団」というグループが作られた。それが国防隊のはじまりだった。
東京中心だった自警団が全国に広がっていったのは、少年団が各自治体に根づいてからだった。少年団を卒団した青年たちは仲間をつのり、こぞって自警団をまねた集団をつくっていった。
それならば全てを統括したひとつの組織にして、国が予算を組んでバックアップをし、実際に役立つ訓練をした方がいいという流れになったのは、そのそきすでに中堅となっていたあの国会議員とその派閥の力であったらしい。「彼らの愛国心に報いるために」と、議員は言った。
国防隊員は、支給されたそろいの制服を着て、設備の整った宿舎に住んでいる。
宿舎は訓練のできる広い敷地の中にあり、そこは「基地」と呼ばれている。基地では、自動車の運転免許も楽にとれるらしいし、経験をつんで隊の中である程度の階級になれば、警察官同様武器を持つことも許される。年をとったり、事故などで怪我をして活動できなくなれば年金が支給される……。
兄ちゃんがそこに入る? 行くところはある、と言った。でも……。
「ご存知だと思いますが、二十歳が近づくと、社会への適応性を調べるために、キャンプではテストをします。心理学者が面接をすることもありますし、ペーパーテストの形をとるものもある。まあ、詳しくは言えませんが」
男の言葉に、両親は素直にうなずく。
「霜村洸は無難な成績でした。社会不適応でもなく、完璧な適応も示さなかった。あまり完璧だと不自然ですからね」
父親が、少しかすれた声で言った。
「洸が、テストをごまかしたとおっしゃるんですか」
男は、ちらりと薄笑いを浮かべた。
「そう聞こえましたかね。何にせよ、キャンプの側では、彼を単独で帰宅させるのはリスクがあると考えた。おたくから迎えには来ない、と担当者から聞いていましたしね」
男は言葉の調子を変えずに言う。
そういう打診があったのか。そして、父さんも母さんも、兄ちゃんを迎えには行かないと言ったのか。
涼は、思わず首を動かして両親を見た。父も母も動かなかった。
「彼には、ちょっと危ういところがあると判断されたらしいですな。それで、もう少し規律に慣れた方がいいとの厚情で、国防隊を薦めたのです。ここへはキャンプの職員が付き添ってきて、明日からのことを説明するはずでした。霜村洸自身も、それで納得したと思っていたんですが」
「あいつは、上の判断に背いて逃げ出したんですか」
父親が言うと、男は憐れむような視線を向けた。
「彼だけを責めるわけにはいきませんよ。誰かが彼に単独帰宅許可証を渡した。おそらく、霜村洸は、好ましくない連中といまだに接触があったのでしょう」
「更生キャンプの中でですか」
驚いたように声をあげた父親の言い方に、男の気にいらない響きがあったらしい。
男は笑顔を決して身を乗り出した。
「いいですか、キャンプは刑務所ではない。『モグラ』でも『不満分子』でもなんでもいいが、あの連中はまだ犯罪を犯したわけではない。デモやビラ撒きの現場を押さえればともかく、誰かと会ったり、何かをしゃべったりするのを禁じる法律はないのです。国会で審議されている通り、刑法が改正されれば、騒乱予備罪を広く解釈して、謀議が行われた時点で逮捕監禁できるが、今はまだやつらが何かするまで手が出せない。我々は法を遵守する立場ですからね。日本は法治国家であることを忘れないでください。法の隙間をぬう悪がしこいやつらが指の間からもれたとしても、そのことで、安閑と暮らしている民間人に文句を言われる筋合いはない」
父親は、口の中で何かつぶやいた。男は軽蔑したように唇の端をゆがめ、また肘掛け椅子に深く座りなおした。
「とにかく、微妙なところなのです。手違いとはいえ、彼は正当な許可証でキャンプを出た。まだ国防隊への入隊手続きをすませたわけではないから、無許可脱退として脱走扱いにもできない。信義と責任に基づいての国防活動ですから、本来なら脱走は重罰に値するのです。こちらとしては、近日中に霜村洸が出頭して来るなら、ことを穏便にすますつもりです」
母親が、声を殺して泣き出した。男は満足そうに母親を見て、それから涼の方を向いた。




