1・別の場所(20)
◆
このノート、読み返してみると、最近はほとんど涼のことばかりだ。涼に出会う前は、毎日の食事のこととか、ちょっと書くだけだった。
だけど、いつまで涼の世界との接点を保っていられるだろう。あたしはもっと涼と話をしたい。知りたいこと、聞きたいこと、いっぱいある。それ以上に、話したいこともいっぱいある。涼に、あたしのことを覚えていてほしい。もしいつか、ふたつの世界がつながらなくなったときにも。
ううん。先のことを考えて取り越し苦労をするのはやめよう。
涼から、お兄さんのこと、お母さんのこと、聞いた。
お母さんのことは……。あたしだって、「あなたのためを思って」なんて言われるのは大っ嫌い。そう言うセリフは、たいて「自分のため」しか考えてない人の口から出てくると思うから。
親は選べないから、ときにはハズレがあるかもしれない。……うーん、これは、よく知りもしない涼のお母さんに対して失礼かな。でも、一般論として「ハズレの親」っていると思う。子どもができたら、それだけでいい親になれるわけないもの。
リョウのお母さんのことも、よく知らなかった。仕事はしていなかったらしい。家にいて、家事をするのが好きだったのかな。
うちのお母さんも家にはいたけど、フリーライターをやっていたから、家でも仕事はあった。それにあの人、たぶん、家事はあんまり得意じゃなかったと思う。会社に勤めるとか、何かの組織に入るのも得意じゃなかったんじゃないかと思う。宝くじにでも当たって、大金持ちになったらいいわねえ、なんて能天気なことをよく言ってたっけ。なのに、宝くじ買うのも忘れるのよね。
書く仕事のほかは、図書館へ行って、子どもたちにブックトークをするボランティアをしていた。それは楽しそうだった。
お母さんのそういうことを見ていたおかげか、あたしも、ここにいる小さい子たちにお話をしてやったりすることがある。でも、昔話も童話も、食べ物が出てくることが多くて、おなかがすいて困る。おむすびがころりんと転がったり、フライパンいっぱいの大きなカステラを焼いたりとかって。
でも、子どもたちが笑うとあたしも楽しい。
ときどき思うんだけど、涼は幸せに青春してるんだろうか。聞いてみようかな。なんて聞けばいいのかわからないけど。それに、もしかしたら失礼なのかもしれないけど。
あっちの碧は涼のお兄さんのことをずいぶん知ってたようだけど、こっちのシモムラ・コウについて、あたしはほとんど知らない。リョウから聞いたことだけ。
自給自足のコミューンて、どんなところだろう。ちゃんと生きててくれるといいけど。
あたしは、ちょっとリョウのお兄さんて人に会ってみたいような気がする。
クラッカー、干しぶどう、砂糖湯を飲む。
◆
学校の前の坂道を降りると、本丸通りに出る。両側の歩道には銀杏が並んでいる。葉は少しずつ色づきはじめている。
歩きながら、涼はその男に気づいた。
涼の少し後ろを、うつむき加減に歩いている。短く刈った髪。こけた頬。流行遅れの銀縁の眼鏡。
斜め後ろにいた男が、さりげなく涼の横に並んだ。しなやかな身のこなし。見かけより若いに違いない。
突然、わかった。
兄ちゃん。
洸だった。
洸は、わずかに首を振った。
「そのまま、前向いて歩いてるんだ」
静かな声で言った。
「涼」
肩越しに声が通り過ぎていく。
「更生キャンプは今日出た。でも、家には帰らない。行くところはあるんだ。おまえには会っとこうと思ってた。ずっと」
涼は、言われた通り前を向いて歩いている。心臓が喉のところで打っている。
「今から言うこと、覚えるんだ。ver@ja.in。繰り返して」
涼は、口を開こうとするが、声が出てこない。
「繰り返して。おまえなら覚えられるはずだ」
涼は、なんとかささやきをしぼり出す。
「ver@ja.in」
洸がうなずく気配がする。
「電子メールのアドレスだ。何かあったらここにメールをくれ。内容はなんでもいい。でたらめでいい。ただし、ピーターという名前を使うんだ。ピーターからフックに送れ。ピーターからメールが来たら、俺はなんとかしておまえと連絡をとる」
ピーター。フック。
涼は、頭の中で繰り返す。
こんなふうに再会するはずじゃなかった。兄ちゃんはうちに帰って来ればいいんだ。こんなこと、どうして必要なんだ。
けれど、洸の有無を言わせない態度が「必要がある」と言っている。
一昨日だった。青少年育成局から人が来て、両親と涼を面接した。洸を受け入れる環境ができているかどうか調査に来たのだ。
家族の交友関係も調べられた。もしかしたら、何もかも承知していて、形ばかり審査に来たのかもしれない。
父親は、洸が家に戻ることに同意した。そのまま別の施設に送られることに決まったなら、いっそ何も問題はなかった。けれど、洸は、キャンプで受けた適正テストがまあまあの結果で、自宅で社会復帰していいことになったのだった。もし、それを周囲が知ったとしたら、息子を家に受け入れない親は「ひどい人間」というレッテルを貼られてしまうだろう。
一昨日の面接の結果は後日知らせる、と言われたきりだった。まして、洸が今日キャンプを出るとは聞いていなかった。
「いいか、涼」
涼はうなずく。
いや、兄ちゃん、よくない。わからないよ。
突然、兄が涼の腕をとった。そのまま歩道の片隅へ引っ張って行く。郵便局の前、ポストの脇だ。向き合うと、涼の背丈はむしろ洸より少し高かった。
洸は微笑んだ。
「おまえと、もっといろんな話をすればよかった。なんでもない、毎日のあたりまえの会話をしてればよかった。あのころは、時間はいつまでもあるような気がしてた」
「兄ちゃん……」
急に、自分が小学生にもどったような頼りない気持がした。記憶の中の洸は、笑っていたり、殴られて顔を腫らしていたりした。そんなたくさんの洸が、目の前の青年に重なった。
「ちゃんと、自分の頭で考えろよ。おまえ、賢いんだから」
洸は、四つにたたんだ紙を一枚、涼の手のひらに押しつけた。メモ用紙のようだった。
「絶対に中を見ないで捨てろ。絶対だぞ。なるべく細かく裂いて、歩道のゴミ箱に捨てろ。必ず家に着く前に」
「これ……」
「大事なことなんだ。さっきのアドレスも忘れるなよ」
涼はうなずき、それからかぶりを振る。
兄ちゃん、僕はこわい。こんなこと。
けれど洸は、元気でな、と言うように一瞬涼の手をきつくつかんで、魚のようにすい、と街の流れにまぎれてしまった。
不意に視界がゆらぐ。遠ざかる洸のうしろ姿に、雪がちらちらと降りはじめた。
ちょっと、と声をかけられて、涼は自分がポストの前に突っ立っているのに気づく。あわてて歩き出すと、手紙を出しにきた誰かの軽い舌打ちが聞こえた。
体が震える。視界も震えている。手の中の紙片は脈打つような存在感を持って、手のひらを圧迫した。
見ないで捨てろと言った。それなら、なぜ僕に渡す? なぜメールアドレスを覚えろと言う?
ver@ja.in
一瞬アドレスが思い出せなくて、頭の中がパニックになった。思い出したとたんに、体中から汗がふき出した。忘れていたらよかったのに、という思いが、胸の底をかすめた。
今あったことから逃れたい。いや、それよりも、今あったことを理解したい。
それでも、兄ちゃんに会えた。兄ちゃんは元気そうに見えた。
涼は、手の中で紙片を裂いた。手のひらの汗で湿った紙は、握ったまま指を動かすだけで簡単に裂けた。ばらばらになると、一番手近にあったゴミ缶の中にそれを捨てた。
けいれんするように手が震えた。ゴミ缶の中に汚い水がたまっているといいと思った。今捨てたものがなんだか、わからなくなってしまえばいい。
兄の声が、まだ耳の奥に残っている。
ver@ja.in
脳の中に重荷を抱え込んで、涼は息をきらしながら歩いた。秋の陽射しの中を幻の雪が舞い、黄色を帯びた銀杏の葉を透かして積もっていった。




