1・別の場所(19)
核兵器は、何度も核実験で使われていた。
担任が休みだったり、どこかに出向して外出している日に、涼はわざと昼休みを避け、短い休み時間に何度か図書室へ行ってみた。
『近代国家 日本』はなくなっていた。
涼は、世界史年表にひと言ずつコメントがついている薄い本で、多少の知識を得たのだった。分厚いなにかの本の資料として付録についているような冊子だった。
一九XX年 マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が核実験 日本の漁船が被爆した。
それ以上の詳しい記述はなかった。それでも、記録に残っているということは、漁船の乗組員やマーシャル諸島の人々の間に、何か大変な事態が引き起こされたとも考えられる。そういうことがあっての、核抑止力なのかもしれない。
歴史の授業は古いところからはじまり、青銅器だの鉄器だの、縄文だの弥生だの、そういうことはかなり詳しく勉強する。けれど、明治維新のころから駆け足になり、大東亜戦争のあたりまでいけば十分すぎるほどで、いわゆる「戦後」の歴史はほとんどやらない。その後のことは、資料ではあってもまだ歴史ではないのかもしれない。
僕には知らないことがたくさんある。まだまだある。
ミドリに出会ってから涼がそう思ったのは、これが最初でも最後でもなかった。
学校から帰ると、いつもなら黙って軽食を用意するだけの母親が、ダイニングテーブルの涼の向かいに座った。
「洸がね……」
母親は、途方にくれたように切り出した。涼は顔を上げた。
「洸は二十歳になったから、近いうちに更生キャンプを出るって育成局から電話があったのよ。更生キャンプは未成年用の施設だから。成人になるまでに、社会に適応できるように指導するところだって、係の人は言ったわ」
涼は、フォークのふちで切り取ったパンケーキを皿の上にもどした。どちらかといえば、甘いものは苦手だ。
「それで、うちが受け入れるかどうか聞かれたの」
「受け入れるかどうかって」
涼は、母親を見る。
「兄ちゃんの家はここだろ。ここに帰って来るんだろ。ここじゃなくて、どこへ行くの」
母親は、涼から目をそらす。
「キャンプから出た子どもを受け入れたがらない家は多いそうよ。そんなところに送られるなんて不面目なことだし、お父さんの出世や、あんたの将来にも差し支えるかもしれない。育成局の人は、気を使ってくださったのよ」
「よその家のことはいいんだ。兄ちゃんはここへ帰って来ていいよね。そう答えたんだよね」
「わたしはそうしたいわよ。でも、お父さんがなんと言うか……」
「だって、ここじゃなけりゃ、どこへ行くの」
「成人用の施設もあるんだそうよ。そこには作業所もあって、働けばお給金をいただけるから、施設のかかりも自分で払えるって。自立できるのよ。これまでの更生キャンプは無償で置いていただけたけど、もう少年じゃないんですものねえ。自立しなくちゃいけないのよ」
「そんなところに行かなくたって、うちに帰ってくればいいだけのことじゃないか」
涼は、無性にいらだってそう言った。「置いていただけた」って母さんは言うのか。
「でも、もしかしたら、強制的にそういうところに送られるかもしれないのよ。電話では、あくまで『施設を出られた場合』の話ってことでしたもの」
「強制的? 強制的って、どうして?」
母親は、辛そうな声を出す。
「洸が前と変わってなければね……。今でも、あんなふうに協調性がなくて反抗的なら、とても社会に適応できないじゃないの。それなら、成人用の教育施設に入って、働きながら受け入れてもらえるような訓練を受けないと」
涼は、パンケーキの皿を押しやった。
僕は、自分の生きてる毎日を「いいもの」だと思ってるわけじゃない。学校は楽しくないし、友だちはいないし、教師はひどいやつだと思う。それでも反抗しないのは、殴られたくないからだ。更生キャンプに閉じ込められたくないからだ。兄ちゃんのおかげで、自分の考えを言うことが危険だと知ったからだ。どこかで、何を言ったって無駄だ、とあきらめているからだ。
僕は反抗していない。それなら、僕は社会に適応しているのか? 適応って、あきらめることなのか? 協調性って、迎合なのか?
涼が黙っているので、母親はため息をついた。
「お父さんがなんて言うかねえ……」
更生キャンプは、各県に最低一箇所はある。行こうと思えば日帰りできる距離のはずだ。事実、涼は兄に会いに行きたいと両親に言ったことがあった。けれども、未成年者が収容者に面会することは禁じられていると言われた。
「母さん、更生キャンプまで兄ちゃんに会いに行ったことはあるの?」
母親は、後ろめたそうに目をふせた。
「だって、遠いのよ。行けば、その日はお掃除やお洗濯がおろそかになる。お夕飯のしたくに間に合うように帰れるかどうかもわからないし」
「そんなこと……」
「お父さんに言われたのよ。わたしがちゃんと子どもを見ていなかったから、あの子が道を踏み外したんだって。あんたについては、そんなことを言われたくない。学校から帰って来たときは家にいて『お帰りなさい』って、言ってあげたいの。それは、母親の大事なつとめですもの。おやつだって、食事だって、夜食だって、体にいいものを考えて手作りする、それがわたしの仕事だもの。そりゃ、洸にだってそうしてきたつもりだったけど、あの子は外出時間ぎりぎりまでお外にいて、お友だちといいかげんなものを食べたりしてたと思うのよ。食べ物はとっても大切なの。お勉強とか、スポーツとか、わたしが手伝えないことはたくさんあるけど、あんたのために、わたしちゃんとした食べ物を作るくらいはできるのよ。だから、お夕飯のしたくにさわるようなことはできなかったの」
「僕を言い訳にしないでよ」
思ったより大きな声が出た。
自分のことを二の次にして、父親や自分のために家事を優先させている母親には、感謝しなくてはならないと思っていた。それなのに母親をうとましいと思う自分に、罪悪感を感じることもあった。
それでも。
母さんが自分で決めたことなんだ。こういう生活を選んだんだ。「僕のため」じゃないんだ。
「食べ物で何が変わると思うの」
涼は、母親を見た。
「小学生のときも、中学生のときも、兄ちゃんと僕は母さんの作った同じごはんを食べてたじゃないか。道を踏み外すって、母さんはどういうことだと思うの? 兄ちゃんが学校で先生にぶたれたとき、母さんは事情を聞きに行ったの? わたしの作ったごはんを食べてるんだから、この子は良い子ですって、言わなかったの? 先生が間違ってるかもしれないって、思ったことはなかったの?」
母親は、びっくりしたような目で涼を見た。
「悪いことをして、叱ってもらえない子の方がかわいそうなのよ。叱るときには、手だって出ることもあるけど、経験を積んだ先生方はちゃんとわかっていらっしゃる。愛の鞭をふるってくださるのよ。いい態度を身につけさせる、それは子どものためでしょう。お父さんが、いつもそうおっしゃってる」
涼は激しく首を振る。
「父さんじゃなくて、母さんはどう思ってるの。親や先生の方が大人で、子どもより知識も経験もある。そうなんだよね。それなのに、自分より弱い子どもをぶたなくちゃわからせられないの? 子どもにわかるように話をする方法は知らないの?」
母親は、涙声になる。
「言ってわかる子どもばかりじゃないわ。みんながあんたみたいな優等生じゃない。ときにはぶってでも、教えなきゃならないことだってあるのよ……。先生は……お父さんだって……洸をぶつ手の方が、ぶたれた洸より痛かったんだわ。洸のためを思って……」
洸のためを思って。
「更生キャンプも兄ちゃんのため? それなら、何も不面目なことないじゃないか。子どものために決断したって、隣近所にいばっていたらいいじゃないか。子どものためを思ったことで、父さんが出世に差し支えるの?」
母親は、いやいやするようにかぶりを振った。涙がこぼれ落ちた。
「母さんをそんなにいじめて、あんた何がおもしろいの。あのときだって……洸が更生キャンプに行ったときだって……おじいちゃんやおばあちゃんに、わたしがどれだけ責められたか。子育ては母親の仕事なのに、長男でそれに失敗するなんて、母親も嫁も失格だって。離縁するから涼を置いて出て行けとまで言われて、わたしはおじいちゃんとおばあちゃんに土下座して謝ったのよ。そんなこと、いちいちあんたには言わなかったけど」
祖父母は、洸が更生キャンプに送られてから、この家にさっぱり来なくなった。祖父母は父の長兄と暮らしている。
涼は唇をかむ。こんな話をはじめるんじゃなかった。さっさと自室に上がってしまえばよかった。
口の中に、後悔が苦い味になって広がった。
「せっかく今まで優等生でやってきたのに、そんな物言い、お兄ちゃんにそっくりじゃないの」
母親は、開き直ったように、涙のたまった目を涼に据える。
「あんたに悪い影響があるなら、お兄ちゃんを家に受け入れられない。あんたがそんなこわいことを言ってるようだと、お兄ちゃんここに帰って来られない。あんたのせいよ」
頭がしびれる。怒りかもしれない、と思う。
僕のせい?
僕のため?
兄ちゃんは、こんな家に帰って来たいだろうか。




