1・別の場所(16)
「霜村君!」
振り向くと、野見山碧が自転車で走って来るところだった。ブレーキをきゅっと握って涼の横で止まる。
「ちょっと寄り道する時間ある?」
涼は口を開け、また閉じた。それから、つばを飲み込んで尋ねる。
「寄り道? どこへ?」
「公民館。霜村君、言ってたでしょ。あっちのミドリは公民館にいるって」
涼は瞬きした。
「どうしたのよ」
公民館。そうだ。ほとんど重なっているふたつの街の、ミドリのいる公民館を探してみてもよかったのだ。それは思いつかなかった。
やっぱり自分は想像力が足りないらしい、と涼は思う。
「こっちの公民館、同じところなのかどうかわからないけど。ねえ、聞いてる?」
「うん。……聞いてる」
「行ってみたって、何かの役に立つわけじゃないけど」
「うん。行ってみないとわからないけど」
碧がにっこりした。
「じゃ、行ってみる?」
「うん」
碧は自転車を降り、それを押して涼の隣を歩きはじめた。
女の子と並んで歩いて、何を話せばいいのだろう。涼が考えるより早く、碧の方が口を開いた。
「霜村君のお兄さん、霜村洸っていうんじゃない?」
涼は、またびくっとする。それでもうなずく。
「うん」
それから、ひとつ息を吸ってつけ加えた。
「でも、今、更生キャンプにいるんだ」
碧が目を上げた。
「知ってた。あのね、わたし、高校に入る前から、霜村君のお兄さんの名前を聞いたことがあったの。中学一年のときだった」
涼は碧を見る。
「わたしたちの中学、まだ養護学級があったのよ。その三年にいた女の子の……知的障害と、運動障害もちょっとあって、その子の姉さんが、高校で霜村君のお兄さんと同級生だったって」
小・中学校の養護学級は、どんどん廃止されていた。そのかわり、全寮制の養護施設が郊外にできて、障害を持つ子どもたちはそこに収容されている。
街中で車椅子や白い杖を見かけることはまずなかったし、障害の程度によっては、いったん施設に入ったら出て来ることはないと言ってもよかった。
関係省庁と施設の経営者側は、子どもの将来を案じ、介助に疲れた家族から感謝されている、と発表していた。健常者に合わせて造られた街に無理して出て来なくても生きていけるのは、障害者本人にとっても一番の幸せな方法だと言われていた。
「ええとね」
碧が、ちょっと口ごもる。
「その、養護学級の女の子ね、あの……初潮があってね。わかるでしょ」
「うん」
涼は、すばやくうなずく。
「それで、子宮と卵巣を取る手術を受けさせられることになった。自分じゃ、えーと……毎月そういう手当をすることだって難しいし、将来子どもを産んで育てるなんて、できっこないからって。それに、たとえ誰かが手伝って子どもを育てたとしても、その子どもにも障害があるかもしれないって」
碧は言葉を切る。涼は、碧の自転車のきらきら光るスポークを見つめながら黙っている。
「その子の両親は同意したのよ。いつまでも親が面倒見てやれるわけじゃないし、施設に入ったとしても、職員さんによけいな迷惑をかけられない。手術するのが本人のためなんだって」
碧は涼の方を見ない。
「……でも、お姉さんはなんだか間違ってるような気がしたらしいのよ。わたしが直接聞いたことじゃないんだけど、妹と同じ両親から生まれた自分は、いつか子どもを産んでもいいのか、自分がいいのなら、どうして妹はだめなのか。……そんなふうに思ったみたい」
ちらりと涼を見上げた。
「でも、どうしたらいいかわからなくて、学校の友だちに話したのね。それが、霜村君のお兄さんだった」
洸の友だちの多くは、両親、特に父親の気に入らない子ばかりだったから、洸は友だちを家に招ぶよりも相手のところに出かけていく方が多かった。女友だちがいたとしても、涼はまったく知らなかった。
「精神病院の入院患者なんかは、今までも不妊手術してたんだって。精神病は治らないって言われて。そういうこと、知ってた?」
涼は首をふる。
自分の世界の碧に聞かれることにも、「知らない」と言うしかないのだ。
「本人が嫌だと言っても、家族が同意すれば手術できるんだって。家族のいないひとは、主治医が決めていいんだって。でも、そういうことはよくないと思う人たちがいた。詳しいことはわからないけど、精神病は合う薬を飲んだり、ちゃんと話を聞いたり、いろんな方法で、退院して普通の生活も送れるようになるんだって。わたしのお父さんみたいに、糖尿病だけど薬を飲んで普通に暮らしてるっていうのと、同じようなことかな」
ミドリの父親は、心臓の持病があると言っていた。
「わたしは、健康な体にメスを入れて、健康な臓器をとっちゃうのは嫌だなって、そのとき思った。そのくらいしか思わなかった」
涼は、うなずくこともできずに聞いていた。
「精神病の人や障害のある人への不妊手術に反対してる人たちに、霜村君のお兄さん、相談したみたい。うちの中学の前で、そのグループの人たちがビラを撒こうとしたんだけど、あっという間に警官が来て……。わたし、その中のひとりが警棒で殴られるとこ見ちゃって気持悪くなった」
碧は、しばらく黙ったまま自転車を押した。
涼は、そのころの兄が何をしていたのか、全く知らなかった。知らないことばかりだった。
「その子のお姉さんと霜村君のお兄さん、高校で集会を開くことも考えたみたいなんだけど、それもつぶされて、見せしめみたいにお兄さんが更生キャンプに送られたのよね。中学でちょっと噂になったの。『あの子のせいで、霜村洸って高校生が更生キャンプ送りになった』って」
碧は涼を見る。
「高校で霜村君と同級になったとき、もしかしたらって思ったんだけど、なんとなく聞きそびれてて、そのうち忘れて、この前霜村君から一人っ子かって聞かれたとき、あ、そういえば、って」
「うん」
「わたし、中学のころはあんまりものを考えてなかった。不妊手術をするのがその子のためだって言われると、『違う』とは言えない気もした。まわりに迷惑かけるっていうのも、そうなのかもって……。でも、生きてれば自然にあることが迷惑っていうのも変だなあって」
大きく息をついて、まじめな顔を涼に向けた。
「霜村君は男だから、わたしみたいに感じたことはないよね。わたしは、何かちょっと頑張ると『女だてらに』なんて言われたり、『女の子は少しバカな方がかわいい』なんて言われたりして、きちんと評価してもらえない。そしてね、そんなふうに言われているうちに『男の子よりちょっとバカ』を目標にして、その通りバカになっちゃう女の子もいる……。確かにいるのよ。まわりの満足を、自分の満足だと勘違いしちゃって」
碧は、自信なさそうに微笑んだ。
「……何言いたいか、わかんないわよね」
涼は、入学したばかりのあの日のことを思い出す。自分が級長、碧が副級長に決まったときだ。「身の程をわきまえろ」と担任は言った。
「そういうのが悔しいと思うとき、なんでだかあの子のことを思い出すの。注射とか、痛いこととか嫌いで……まあ、そういうの好きな人いないけど、あの子は、はさみや針もこわがる子だったって。そんな子が、あなたのためだって言われて手術室に入ったのよね。『あなたにはわからないんだから、言う通りにしなさい』ってことなんだよね」
与えられた課題をこなして、言われたことをきちんとやれ。
涼は、この前図書室で担任に言われたことを思い出した。
「弱い立場の人って『あなたのため』って言われたら、なかなかいやとは言えないよね。いやだと言っても聞いてもらえないっていう経験を積んでるから。女っていうのも、けっこう弱い立場なのよね。自分で自分のためになることがわかっちゃいないって思われてるみたいな。でも、『いやだ』って言う声を聞こうとしてる人たちもいるんだ。……そう思ったらね」
涼を見上げる。
「霜村洸って人は、公平な人なんだろうなあと思ったの」
涼は、胸の奥が痛むような気がして、それでも碧の視線を受け止めた。
「公平な人を、更生させるって……」
碧は、答えを探すように空を見上げた。




