1・別の場所(15)
「涼って、誰かと親しくなるのが嫌いなの? だから、今までそっちの碧ともろくに口をきかなかったの?」
その夜、ミドリに言われて涼はとまどう。
「そんなことないよ」
「もし、あたしと碧が似てるなら、碧って案外気楽につきあえる相手なんじゃない? 涼はこんなふうにあたしと話をしてるんだから、きっと碧とだって友だちになれるよ。なんか、他人事みたいだけど。うん、他人事かな。ややこしいね」
「今までだって、野見山と話くらいしたよ」
「必要なことだけだったんでしょ? あ、今度のことも、必要っていえば必要に迫られてたのか。涼は誰にでもそうなの? リョウもおしゃべりじゃなかった。友だちはいたけどね。あたしはリョウみたいな子好きだった。だから、そっちの碧だって涼を好きだと思う」
涼は、思わず首を振る。
「そりゃないよ」
「なぜよ。黙って話を聞いて、それを信じてくれたんでしょ? それって、碧が涼を信じたいと思わなきゃそうならないよ。……あ、そうか。『好き』ってね、恋愛の『好き』じゃなくて、コロッケが好きとかの『好き』なのよね」
コロッケ?
「いや、僕に想像力がないって思ってるからだよ。架空の世界をでっちあげるなんてできっこないって。それに、野見山は誰にでもあんなふうなんだ。僕の話だけちゃんと聞いてくれるってわけじゃないんだよ」
ミドリが、おもしろそうに涼を見た。
「どうして言い訳ばっかりするの。何か悪いことしたみたいに」
反論しようとして、涼はためらう。反論じゃない。ミドリの言うとおり言い訳なのかもしれない。
誰かと深く関わるのは、なんだかこわい。誰かに自分の気持を見せること、誰かの心の内を知ることもこわい。
親しくなったら、きっと傷つくときが来ると思う。傷ついても平気だ、と言えるほど自分は強くない。むしろ、平気なふりをしなくてはならないほど、弱い。
最初から親しい誰かがいなければ、ひとりきりでも大丈夫。それ以上ひとりになることはない。
涼が小学五年生のときのことだ。塾から帰って玄関の戸を開けると、洸がいた。
洸は上がりかまちに腰をおろして、スニーカーの紐をほどこうとしていた。少なくとも、指に靴紐を巻きつけていた。中学生が学校から帰るには、ずいぶんと遅い時間だった。
「ただいま」
涼が言っても、洸はうつむいたままだった。
「兄ちゃん、どうしたの」
もう一度声をかけると、洸は静かに顔を上げた。頰に殴られたようなあとがあった。
兄は涙を流していた。あごの先から涙がひとしずく落ちて、三和土に黒い丸いあとを残した。
「兄ちゃん……」
言葉を失って立ち尽くす涼に、洸は低い声で言った。
「おまえみたいなバカにはわからない」
涙をぬぐいもせず、声を荒らげもしなかった。
「バカなやつらばっかり、生き残りやがる」
頰をぬらしたまま、洸は貫くように涼を見た。
洸が大声を出さないのがこわかった。涼はどうしたらいいかわからなかった。
冷たい怒りのパルスが洸をとりまいているのが見えるようだった。洸の体に触れたら、青い火花が飛び散るのではないかと思った。
あのとき、兄が全身で自分を拒否しているように思えた。涼は泣きたくなったけれど、泣くことはできなかった。なんでもないふりをしていなくてはならなかった。「なんでもない」という鎧をまとわなくては、自分がぼろぼろ崩れてしまいそうなほど、辛かった。
兄が自分を閉め出している。涼は、洸のことが好きだったのに。
この日、洸に何があったのか、涼は長いこと知らなかった。兄の友だちが、学校で何かの事故のために死んだらしいということだけ、両親の話から想像できただけだった。
その想像にけりがついたのは、中学一年の三学期だった。
同級生のひとりが「社会科準備室」という札のかかった小部屋の前で、声をひそめて言ったのだ。
「昔、ここで殺人があったんだって」
「そして、夜になると幽霊が出るのか? 科学的じゃないなあ」
一緒にいたもうひとりが、からかうように言った。
「そんなんじゃないよ。昔ったって、ほんの何年か前のことらしいよ。部活の先輩に聞いたんだ。生徒が先生に蹴り殺されたんだって」
「蹴り殺された?」
涼も、からかうつもりだったらしいもうひとりも、目をみはった。
「嘘だろ、そんな」
「ほんとだよ。そりゃ、その生徒、なにか悪いことしたんだろ。それで、先生たちがここでその子に説教してて……」
「だけど、殺したりしやしないだろ。ぶたれることくらいはあってもさ。それに、職員室や生徒指導室じゃなくて、どうして社会科準備室なんだ?」
「先輩が言ってたけど、そのころの生徒指導の先生が社会の先生だったんだって。それで、特別きびしく指導しなきゃならない生徒は、ここへ連れて来るのがいつものことだったんだって。『社会科準備室へ来い』って言われるのは、恐怖だったらしいぜ」
涼は、社会科準備室の引き戸を見た。戸はベージュ色に塗った木で、目の高さに八切り画用紙くらいの大きさの曇りガラスがはまっている。
「先生たち、もちろん殺すつもりなんかなかっただろ。蹴りどころが悪くてさ、運が悪かったんだよ、その生徒。殺人って先輩は言ったけど、事故だったんだ」
事故。
そのとき、どうしてあの晩の洸を思い出したのだろう。この話は、ずれていた溝がかちりとかみ合うように、涼の記憶にぴったりはまった。
死んだのは洸の友だちだったのだ。「特別きびしく指導する」とは、どういうことだったのだろう。
そのとき、洸は、この小部屋にいたのだろうか。
いたに違いない、と涼は思った。
友だちが教師に蹴られるのを、苦しんで死ぬのを、殺されるのを、見ていたのだ。
死んだ生徒は何をしたのだろう。
殺した教師はどうしただろう。
それからしばらく、涼は社会科準備室の前を通ることができなかった。
曇りガラスごしに誰かの影が見えるのではないか。戸を開けたら、少年が倒れているのではないか。
そのころ、洸は更生キャンプに送られたばかりだった。あの夜の洸がどんな思いで自分をバカだと言ったのか、涼にはやっとわかる気がした。




