1・別の場所(11)
テレビでニュースをやっている。
涼は二階の自室から台所に下りてきて、コップに水を注いだところだ。台所のカウンター越しに居間のテレビが見える。
「……原発事故の事実を隠したとして……」
画面は国会議事堂らしい。
「……もみあいの末鎮圧されました」
「不満分子のバカどもが」
ソファにごろりと寝転がっている父親がつぶやく。
「何にでも反対だ、嘘だって言いやがる」
クッションを背にあてて肘掛け椅子に座り、編み物の目を数えている母親は何も言わない。
原発事故?
涼の記憶の中で、その言葉がひっかかる。
どこで聞いたんだっけ?
画面は変わって、デモをしていたグループが、重装備の警官隊に取り押さえられるところが映っている。
「この放送局はましだと思ってたが、やっぱり偏向してるんだ。警官が無防備な人間に暴力をふるってるように見えるところばかり撮りやがって。それとも、どこかのスタジオで作ってるのかもしれんな」
父親が、またぶつぶつ言う。
分厚い防具をつけ、黒く塗った盾を持つ警官隊は、黒光りする甲虫の群れのようだ。市民のデモ隊がかなうはずはない。
それでも、それを承知でこういう行動に出るのはなぜだろう。逮捕者が出るのは確実だし、そうなったら、職も、もしかしたら家族も失う。怪我だってするかもしれない。あるいはもっと悪いこと……。
倒されてアスファルトに押し付けられたデモ隊のひとりの顔が、はっきりとカメラのほうを向いた。眼鏡がゆがんでいる。頰に菱形のあざがある。
あっ。
涼は、声をあげそうになった。コップが落ちる。水とガラスのかけらが足元に飛び散った。
「涼!」
「何やってるんだ!」
両親がこっちを向いた。
先生。あれは、塾の山城先生だ。中学の数学担当だった。幾何が好きだから頰にこんなあざができた、と冗談を言っていた。まだ自転車で塾に通っていた中学生のころ、毎晩のようにあの先生に教えてもらった。
涼は一度、どうしても解けない問題を講師控え室まで聞きに行ったことがある。解き方を説明していた先生は、ふと顔を上げて涼を見た。
そのときの自分がどんな顔をしていたのか、涼にはわからない。けれど、どこか怪我でもしているような、痛そうな顔をしていたのではないかと思う。問題が解けないというのは、涼にとっては苦痛だった。
先生は微笑んだ。
「わからなくたって、かまやしないんだ。勉強を間違ったり、わからなくなったり、そういうことを塾や学校でしないで、どこでする? 全部わかるなら、こんなところに来ることはない。塾や学校は、間違ったっていいところなんだ。だから、そんなにぎりぎりに考えなくていい。たかが勉強だ」
その帰り、自転車のペダルを踏みながら、涼は涙がにじむのは冷たい夜風のせいだと思おうとした。
「たかが勉強」という言葉は新鮮だった。自分がきっちりとはまってきた「優等生」という枠に、少しすきまがあってもいいのかもしれない、と思った。
たかが勉強。時々そうつぶやくと、どこかが少し楽になった。
「怪我、しなかった?」
母親が編み物を置いて、そわそわと涼のそばへ来た。父親は面倒臭そうに姿勢を変えて、またソファの肘掛に頭を載せた。
涼は、母親がコップのかけらを拾うのをぼんやりながめていた。警官に押さえつけられた山城先生のゆがんだ顔が、ピントのぼけた写真のように、頭の中に大写しになっていた。
「あんた、ズボンびしょぬれよ。風邪ひくといけないから、早く着替えなさい」
「……うん」
階段を上りながら考える。
本当に山城先生だったんだろうか。似ている誰かだったんじゃないか。でも、あのあざ……。
先生は逮捕されたんだろう。それなら塾の仕事は? ああ、そんなことより、どうして先生はあんなところへ行ったんだ? 原発事故を隠す……。どこかで事故があったんだろうか。そんなことを隠しておけるものだろうか。何がどうなっているのかわからない。この国に原子力発電所がいくつあるのか、それも知らない。
僕はいつもそうだ。わからない。知らない。
事故を「隠す」っていうことは、見つからないようにごまかす、ということだろう。でも、原子力発電所で事故があったなら、本当にあったなら、それを隠すって危ないことじゃないんだろうか。知らせなくてはならないそんなことを、誰がどうやって隠すのか。そしてまた、デモをする人たちは、隠していることをどうやって見つけたのか。
ビラだ。
涼は、顔を上げる。
いつだったか、学校帰りに「モグラ」から渡されたビラだ。あのときは、おおいかぶさる雨の世界が気になって、ろくに見もしなかった。
涼は立ち上がって、壁につるした学生服のポケットを全て探る。何もない。
捨てた覚えはなかった。きっと、ときどき黙って部屋を調べる母親が見つけて、捨てたのだろう。
涼はまた腰をおろす。
新聞に原発事故のことは書いてあっただろうか。読んだ記憶はない。隠しているというのが本当なら、報道もされていないんだろうか。……それとも、そんな事故はないのか。
けれども、ない事故に対して、逮捕覚悟で抗議する人がいるだろうか。
新聞の政治面には、難しい言葉で書かれた退屈な記事が並び、正直なところ、あまりきちんと読んだことはない。
社会面には少年事件の報道が多い。「底辺校」と呼ばれる高校での、生徒同士の傷害事件。非行グループの薬物乱用事件。低所得者が住む地域での集団暴行事件……。
こういう事件で警察沙汰になった少年たちは、顔も名前も公表される。彼らが送られるのは更生キャンプではなく、事件の程度によって少年院か少年刑務所となる。そこは更生施設ではなく、懲罰のためのものなのだそうだ。
ぬれたズボンのせいだろう。涼は、ぞくっと身震いした。ベッドの布団は、座っていたところの一部が湿っている。
山城先生の授業はおもしろかった。内容のきりのいいところでテキストを終えて、あまった時間があれば数学のパズルを教えてくれた。
十の袋に金貨が入っている。その中に偽物の金貨の袋がひとつある。偽物は本物より、金貨一枚の重さが一グラム軽い。さて、はかりを一回だけ使って、偽の金貨の袋がどれか当てるには?
けれど、こういうことはあるときから行われなくなった。試験には出ないであろう問題に不満を持った誰かが、塾長に注進に及んだという話だった。その後は、もし空き時間があれば、自習か小テストに充てられることになった。
あの先生と、もっと話をしておけばよかった。
洸がいなくなったときも、同じことを思った。




