1・別の場所(10)
暗がりで、誰かが数人の人間に殴られている。見ている涼は体が動かない。無抵抗で殴られる誰かをじっと見ている。見たいわけではないのに、目をつむることも、そらすこともできない。
不意に、殴られているのが誰だかわかった。
洸だ。
兄ちゃん。
殴られている洸は、中学生くらいだ。見ている涼は、低くなる前の子どもの声で考えている。
兄ちゃんをぶつな。兄ちゃんをぶつな。兄ちゃん、何をしたの。なぜぶたれるの。
洸は、いわゆる不良少年ではなかった。教師は洸を「協調性がない」「反抗的だ」と言って殴った。
洸は、黙って教師に従うべき場面で質問や意見を言った。見過ごしていればなめらかに進むはずのことに、待ったをかけて集団を乱した。
そういうことが起きるたびに教師は洸を殴ったが、洸は異議ありと声を上げるのをやめなかった。
家では、父親は「ほかの子と同じことができない」と洸を殴った。それでも洸は変わらなかった。
涼は、兄が好きだった。どちらかといえば内向的な洸をひっぱって、洸は外の世界を、ほかの考え方をちらりと見せてくれたと思う。カーテンの隙間からきれいな庭を見るように。
ーー涼、ほめられるの、好きか。
洸が中学に入ったばかりのころ、涼は聞かれたことがある。
ーーうん。
ためらいもせず、涼はうなずいたのだ。それから、少し考えた。
ーー兄ちゃんは、ほめられたくないの?
洸は、なにも言わなかった。
暗がりの中の洸は、今はうずくまっている。ひとりが足を上げて、洸を蹴ろうとした。
いけない! 蹴るのはいけない!
「やめろ!」
涼は必死で声を振り絞る。それが合図のようにあたりが明るくなり、どこにいるのかがわかった。
大きな壁掛け地図や地球儀……。中学の、社会科準備室だ。
洸を蹴ろうとしていた人物が振り向く。
涼だ。
洸に暴行を加えていた全員が、こっちを見る。どの顔も同じだ。みんな涼の顔、顔、顔。
悲鳴がのどに詰まる。
違う兄ちゃん僕じゃない僕兄ちゃんを殴ったりしない違う違う僕ーー!
目を開ける。心臓が、胸を破りそうな勢いで打っている。声にならなかった悲鳴がのどにからんで、息が苦しい。
涼は、ベッドに磔にされたように、体を固くして横たわっていた。
僕は誰も殴ったことなんかない。
ーーそういうことに抗議しないの?
頭の中のミドリの声に耳をふさぐ。
黙り込むことで殴る行為を認めてきた僕は、殴る側の人間だったということなのか。ほめられるのが好きな優等生の僕は、兄ちゃんを殴っていたのか。
僕はどうすればよかったんだ。兄ちゃん、僕に何ができたんだ。
こわばった体でなんとか寝返りをうち、枕に顔を埋める。早く朝になればいい。
近代史の本は驚くほど少ない。「更生キャンプ」をキーワードにして探した本は、楽に小わきに抱え込めるだけの数だ。
涼は、また図書室に来ている。ミドリの世界を知れば知るほど、自分の世界を知りたくなる。知っているつもりだったのに、知らなかったことに気づく。
涼は、次の書架に移る前に、立ったまま本のページをぱらぱらめくった。
更生キャンプの前身は、「青少年教護施設」と呼ばれるものだったらしい。読んだ限りでは、今の少年院と更生キャンプを合わせたところのような感じだ。
【捨て石部隊】
古い一冊の、黄ばんだページの言葉が涼の目をひいた。涼はほかの本を脇にはさんで、その一冊を開いた。
【太平洋戦争の中ごろ、青少年教護施設の収容者たちは、年齢、体格、健康状態に関わらず、強制的に兵役につかされた。彼らの中に、施設暮らしよりも兵隊になることを選んだ者がいたことも、また事実である。
彼らは激戦地へ送られ、そのほとんどが戦死、または行方不明となった。収容者たちで構成された部隊は、ひそかに「捨て石部隊」と呼ばれていた……】
捨て石部隊?
涼は、しばらく文字を見つめる。
今は、そんなことにはならない。更生キャンプは昔の青少年教護施設とは違う。日本は今どこの国とも戦争はしていないし、安全な国なのだ。それに、大東亜戦争の後、一時的にアメリカの管理下にあったときから、軍隊だってなくなった。国防隊というのはあるけれど、そこに加わっているのは全国から志願してきた青年たちで、ボランティア同然の有志だと聞いている。
捨て石部隊。
涼は、本を閉じて書名を見る。
『近代国家 日本』
近代。日本史で詳しく習うのは、明治維新のあたりまでだ。歴史というのは「幕府」だの「大名」だのという、すでに滅びたものを学ぶ学問だと思っていた。
ミドリが聞きたいのは「今」のことなのだ。歴史の一番新しい先端である「今」。
それなのに、「今」を生きているはずの涼は、自分の立っている足元がどういう過去の上に築かれているかわかっていない。
涼は、もう一度本を抱えなおす。核兵器のことを書いた本も見てみないと。小惑星の衝突が核爆弾に換算できるなら……。
「霜村」
本を選んで開こうとしたとき、声をかけられた。
涼は、本を落とすまいとして体を固くした。担任の教師だ。
「どうした。調べ物か」
教師は本をのぞきこむ。
「『これからの原子力』? なんだ、物理の宿題か」
「いえ、これは……」
どう答えようか、口ごもりながら、涼は担任が何もかも承知でしゃべっていることに気づいた。
担任は、涼の腕の中の本を一冊ずつ取って題名を見る。
「『核実験と平和』」
眉をつりあげる。
「核兵器に興味があるのか?」
「いいえ」
涼は、こわばった声で答える。
「『二十世紀の歩み』……『高校生のための近代史』……『近代国家 日本』」
涼の方が担任より少し背が高い。担任は、挑むように涼を見上げる。
「歴史に興味があるなら、いつでも相談にのるぞ。それとも、私ごときの知識では物足りないかな?」
笑う。担任の担当教科は社会なのだ。笑顔の中で、目が冷たく涼を見据えている。
担任は、不意に近代史の本の表紙をぱん! とたたく。涼は思わず息をつめた。
「この手の本にはろくなのがない。歴史の事実を、書き手は主観をまじえてゆがめてしまう。こんなものは歴史小説にすぎん。図書室の本も、現状に合わせて入れ替えるべきだな」
本を重ねて、涼の腕の中にどん、と押しつける。
「近代史に関しては、おまえたちは教科書を読めば十分だ。教科書は、大勢の権威ある学者が執筆し、国家が検定してそれに通ったものだ。個人の主観に支配されることはない。どうしてわざわざこんな本を探す?」
担任は、冷たい目でじっと涼を見る。
「これに限らず、この間から不必要に本の閲覧が多いようだな。どうかしたのか?」
涼は、身を守るように本をぎゅっと抱える。
「え? 答えなさい」
あのミドリにこたえたいからだ。教科書には知りたいことが載っていないからだ。そして、「知らない」と「わからない」しか言えない自分が情けないからだ。
「理由は……ただ……僕は、世の中のことを何も知らないような気がして」
担任の目の中の氷は溶けない。
「おまえの成績に不安はない。向上心はいいことだが、その方向を誤っちゃいけない。役にも立たない本を読んで、時間を無駄にするのはもったいないな。その時間で教科書の復習や健全なスポーツができたかもしれないことを思えば、社会に対する反逆と言ったって過言じゃないぞ」
それでも、知りたいことがある。
「おまえたちの本文は勉強だ。体を健やかに保って、与えられた課題をこなしていればいいんだ。言われたことをきちんとやるつもりなら、よけいなことをしている暇はないはずだぞ」
「はい」
担任は、涼をながめて笑顔になった。思い通りの盤面になった碁盤を見るように。
「悩みがあれば、いつでも相談にのるからな」
「はい」
「よし、行け。そろそろ予鈴が鳴るぞ」
一礼して担任から離れながら、涼はのどのところの塊を飲み込んだ。
図書室で読む本の一冊まで知られている。
震えそうになる手に力を込めて、しっかり本をつかんで書架に戻していく。
なぜだろう。僕は悪いことをしたのだろうか。社会に対する反逆? 僕が勉強するのは社会のためなのか。
予鈴が鳴った。担任はもういない。図書室の天井についている監視カメラは涼を映している。
◆
涼の学校の話を聞いて、ちょっとショックだった。涼が、あんまり当たり前に「生徒がぶたれる」なんて話をするからだ。あたしの行きたかった高校は、涼の世界ではそんなところになっちゃってるの?
小学六年のとき、戦争の話を聞くっていう授業があった。空襲の話をするおばあさんと、実際に戦地へ行ったおじいさんの映像を見た。
おじいさんは、入隊したばかりのときよく殴られた、という話をしていた。「精神注入棒」っていう固い木の棒があって、それでお尻を殴られたんだそうだ。あのとき、男子なんかは「精神って尻から入れるんだ」なんて言って笑ってたけど。
「殴られたくなければ命令に従え、ということだった」とおじいさんは言っていた。
涼の話を聞いて、あのおじいさんのことを思い出してしまった。学校の秩序を守るために、はみ出す生徒をぶつって。生徒より学校っていう形の方が大切だっていうのと同じだよね。
秩序が大切じゃないとは言わないけど、でも、そういうのって、殴られたくないからとりあえず言うこと聞いとく、でいいのかな。殴ることで守られる秩序って、ほんとに大事なの?
あたしも、生徒を殴る先生がいるっていうのは聞いたことがある。でもそれは、問題になって新聞に載ったりするような出来事で、そんなのがいい先生じゃないってことはみんな知っていた。
涼の学校って、あまりいいところじゃないような気がする。
ああ、それでも、涼は学校へ行って勉強できるからいい。清潔で安全だからいい。暖かい家で、おなかいっぱい食べられるからいい。
なのに、涼は自分がどんなに「いい」か気づいてないみたい。もったいない。
涼、もう少ししっかりしてよ。生きてるんだから。元気で生きてるんだから。
公民館には図書コーナーがあった。ほとんどの本はたきつけにされてしまったけど、燃やされる前に読んだ恐竜の本のこと、あたしは絶対忘れられない。
恐竜が絶滅したのは、小惑星の衝突が原因だったのかもしれないってこと、涼にも言った。でも、そのあとに続いた気候変動のことは、怖くて言えなかった。口に出すと希望がなくなるみたいで。
この寒さは十年以上続くかもしれない。その間植物は育たない。今降っている雨は、強い酸性雨だろう。空に巻き上がったチリや、ほこりや、火災のときの煤のせいで。そうだとしたら、そんな雨のしみこんだ土壌はだめになる。雨が止んで日が射すときがきても、作物はもう育たないかもしれない。
あたしはいつまで生きていられるんだろう。
涼がうらやましい。涼に腹が立つ。あの子は元気に生きていける環境にあるくせに、なんだかうつむいて暮らしている。言うべきことを言って、やるべきことをやったら、殴られたっていいじゃない? 更生キャンプに送られたっていいじゃない? ちゃんと食べて眠れるんだから。
……ううん。それでもやっぱり、殴られちゃだめだ……。
わからない。あたし、まちがってる?
今日もおかゆ。食事と一緒に総合ビタミン剤が配給になった。こういうものがあるだけマシなんだろうけど、腹の足しにはならない。
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