第三十五話 運命の歯車
昼時。
第四地区――幸風。
昨日まで城下を覆っていた重苦しい気配は、嘘のように薄れていた。
照りつける陽光が瓦屋根を白く照らし、通りには商人の呼び声や荷車の軋む音、人々の話し声が絶え間なく行き交っている。戦いの爪痕が消えたわけではない。崩れた家屋には応急の板が打ち付けられ、道の端には運び出された瓦礫が山となり、ところどころに昨日の騒乱を物語る傷跡が残っていた。
それでも、人々は歩いている。
店を開き、荷を運び、声を掛け合い、昨日までと同じ一日を取り戻そうとしている。
鳴上城もまた同じだった。
城内の至るところから、槌を振るう音が響いている。
「おい、そっち持ち上げろ!」
「柱は後だ! 先に屋根を補強しろ!」
「誰だよ、こんなところまでぶっ壊したのは!」
「騎士団長だろ。あの大男が壁ごと吹っ飛ばしたって話だぞ」
「冗談だろ……」
兵達の笑い声が上がった。
つい昨日、この場所で命を懸けた戦いが繰り広げられていたとは思えないほど、そこには日常の音が戻りつつあった。
そんな喧騒から少し離れた医務室の扉が、静かに開いた。
姿を現したのは喜一だった。
額には包帯。
肩にも、腕にも、胴にも白布が巻かれている。解毒剤のおかげで毒そのものはほとんど抜けていたものの、サラザイカ・クーラーから受けた一撃の傷は一晩程度で消えるようなものではない。
一歩踏み出すたび、身体の奥が軋んだ。
「……痛てて」
思わず声が漏れる。
医師からは安静にしていろと言われていた。
それでも、いつまでも寝台に横たわっている気にはなれなかった。
喜一は壁へ手を添えながら、ゆっくりと廊下を進んでいく。
やがて辿り着いたのは、城下を一望できる開けた渡り廊下だった。
風が吹き抜ける。
昼の熱気を孕みながらも、どこか心地よい風だった。
喜一は欄干へ手を置いた。
眼下には第四地区の街並みが広がっている。
行き交う人々。
走り回る子供達。
修繕に汗を流す職人達。
昨日、あれほど血が流れた場所で、人々はもう今日を生き始めている。
喜一はしばらく、その光景を黙って眺めていた。
やがて、長い息を吐く。
「……俺は」
自分でも誰に聞かせるつもりなのか分からなかった。
「何のために、ここへ飛ばされたんだろうな……」
答える者はいない。
五十年。
あの日から世界は、それほどの時間を進んでしまった。
自分だけが取り残されたような感覚は、今も消えない。
目を覚ますたびに知らない世界がある。
知らない土地。
知らない人間。
知らない歴史。
それなのに、自分の名前だけが妙なところで知られている。
何故、自分なのか。
何故、この時代なのか。
そして――。
皆は、どうなったのか。
喜一の表情に影が差した。
その時。
背後から足音が聞こえた。
ゆっくりとした足取りだった。
喜一が振り返る。
長い紅髪が、風に靡いた。
「……朱音さん」
紅ノ王――菱本朱音。
彼女もまた無傷ではなかった。
額。
肩。
腕。
サラザイカとの死闘で負った傷を覆うように、身体の至るところへ包帯が巻かれている。
それでも背筋は伸びていた。
昨日、血溜まりの中へ倒れた女と同一人物とは思えないほど、その立ち姿には王としての気品が戻っている。
朱音は喜一を見ると、穏やかに笑った。
「喜一。無事で良かった」
そして、少し得意げに続ける。
「余の作戦も、どうにか功を奏したようだな」
「……作戦って」
喜一は苦笑した。
「下手したら全員死んでましたよ」
「そこは言うな」
朱音も苦笑する。
その笑顔を見て、喜一の胸に昨日の光景が蘇った。
サラザイカへ立ち向かった朱音。
孔雀双。
避雷撃。
天堕落。
そして――倒れた姿。
喜一の顔から笑みが消えた。
「朱音さんこそ……あまり無理しないでください」
「お互い様であろう」
「俺は……まあ」
「サラザイカに殴られて廊下まで吹き飛ばされた男が何を言っておる」
「……見てたんですか」
「途中まではな」
朱音が小さく笑う。
だが、喜一は笑えなかった。
少し迷ってから、ずっと胸に引っ掛かっていたことを口にする。
「朱音さん」
「なんだ?」
「どうして……俺を引き渡さなかったんですか」
朱音の笑みが僅かに薄れた。
「重界騎士団へ俺を渡していれば、少なくともあんな戦いにはならなかったはずです」
喜一は欄干へ視線を落とす。
「朱音さんも、深亥さんも、朝座さんも……あそこまで傷付かなかった」
声が沈んでいく。
「城の人達だって危険な目に遭わずに済んだ」
それが喜一には苦しかった。
自分一人のために、あまりにも多くの血が流れた。
「グラビティアへ引き渡していれば……」
「それは違う」
朱音が静かに遮った。
喜一が顔を上げる。
朱音は城下を見ていた。
しばらく風の音だけが二人の間を抜けていく。
「実はな」
朱音はゆっくりと口を開いた。
「第七地区の蒼冥には、少々借りがある」
「蒼冥さんに?」
「ああ」
朱音の瞳が懐かしむように細くなる。
「宗次郎がお前と行動を共にしていると聞いてな。あの蒼冥が、何の考えもなしに若い者を送り出すとは思えなかった」
喜一は黙って聞く。
「だから余なりに考えた。奴が宗次郎をお前に同行させた意味をな」
朱音はそこで喜一へ視線を移した。
「ならば一度、賭けてみるのも悪くないと思った」
「……俺に?」
「そうだ」
即答だった。
「お前を助け、安須森様のところまで行かせてやろうとな」
喜一は言葉を失う。
朱音は少しだけ肩を竦めた。
「それにだ」
途端に、彼女の表情へ悪戯っぽさが戻った。
「重界騎士団の総騎士長からは、お前を捕縛した後、グラビティアへ引き渡せと命じられていたのだが……」
一拍。
「余は、どうにもあやつが好かん」
「……え?」
「好かんものは好かん」
朱音は、ふっと笑った。
「だから従わなかった。それだけだ」
「そんな理由で……」
「そんな理由とはなんだ」
朱音が少しむくれる。
「人が命を張ったというのに失礼な奴だな」
「あ、いや、そういう意味じゃ……」
慌てる喜一を見て、朱音は声を立てて笑った。
その笑い声を聞きながら、喜一もようやく小さく笑う。
「……そうだったんですね」
けれど。
その表情は、すぐに曇った。
朱音はそれを見逃さなかった。
「喜一」
「はい」
「お前はよくやったよ」
思いがけない言葉だった。
喜一が顔を上げる。
「……俺が?」
「ああ」
朱音の声から冗談めいた調子が消えていた。
「怖かったであろう」
喜一は答えない。
「逃げたかったであろう」
「……」
「それでも、お前は立った」
昨日の自分が蘇る。
震える脚。
毒で霞む視界。
倒れていた朱音。
深亥。
傷付いた朝座。
宗次郎。
そして、あの声。
――さあ、行きなさい。
「強い者が立つのは珍しいことではない」
朱音は静かに言った。
「だが、自分が弱いと分かっていながら、それでも誰かの前へ立つのは難しい」
喜一は俯いた。
「……結局、何も出来ませんでした」
「そう思うなら、それでよい」
「え?」
「足りなかったと思えるなら、次に足りるようになればよい」
喜一の目が僅かに見開かれる。
朱音は笑っていた。
優しい笑顔だった。
「これから再び、安須森様のところへ向かうのであろう?」
「……はい」
「ならば、そんな面をしていてどうする」
朱音が喜一の胸を指先で軽く突く。
「そのような死人みたいな顔で行けば、門前払いされるぞ」
「そこまで酷い顔してます?」
「しておる」
即答だった。
喜一は困ったように笑った。
朱音は城下へ目を向ける。
「これから先、色々なことがあるやもしれん」
風が吹いた。
紅い髪が陽光を受け、ゆっくりと揺れる。
「昨日より苦しいこともあるだろう」
「……」
「時には、守れぬものもある」
朱音の声が僅かに低くなった。
「仲間を失うことすら、あるやもしれん」
その言葉に、喜一の胸が締め付けられる。
嫌だった。
考えたくもない。
だが、朱音は慰めるような言葉を続けなかった。
「それでもだ」
朱音が喜一を見る。
「自分が何のために歩いているのか。それだけは見失うな」
「……目的」
「ああ」
その言葉を、喜一は胸の中で繰り返した。
目的。
自分は何を知りたい。
何のために、この世界を歩く。
まず――。
自分に何が起きたのか。
あの日。
元いた世界で何が起きたのか。
ニコレッタ所長はどうなった。
研究所の皆は。
あの日を生きていた者達は。
そして――グラントス。
なぜ自分を、この時代へ送った。
偶然なのか。
それとも。
何か意味があるのか。
答えは一つも無い。
だが。
だからこそ、立ち止まってはいられなかった。
喜一はゆっくりと城下へ目を向けた。
昨日までとは少し違って見えた。
「……そうですね」
小さく息を吐く。
「俺には、まだ知らなきゃいけないことがある」
拳を握る。
「ニコレッタ所長のことも、皆のことも……俺自身に何が起きたのかも」
そして。
「グラントスが、どうして俺をこの世界へ送ったのかも」
自分の口から言葉にしたことで、散らばっていたものが一本の道になった気がした。
「全部、まだ何も分かってない」
喜一は前を見る。
「だったら……ここで立ち止まってる場合じゃないですね」
その横顔を見て。
朱音の表情が、ふっと緩んだ。
「そうだ」
満足そうに頷く。
「その意気だ」
そして、何かを思い出したように手を叩いた。
「そうそう!」
突然声が明るくなったため、喜一が少し驚く。
「なんですか?」
「これから昼餉にするところだったのだ」
「昼食?」
「ああ」
朱音は踵を返す。
「喜一。付いていらっしゃい」
「え、俺もですか?」
「当たり前だ。病み上がりこそ食わねばならん」
「いや、でも俺、まだ医務室から勝手に――」
「余が許す」
「医者に怒られるのは俺ですよね?」
「その時は余も一緒に怒られてやる」
「絶対逃げるでしょう」
「さて、何のことやら」
朱音は振り返りもせず歩いていく。
喜一はその背中を見つめ。
やがて小さく笑った。
「……まったく」
痛む身体を庇いながら、その後を追う。
城下から人々の声が聞こえていた。
槌の音。
笑い声。
呼び込みの声。
生きている者達の音。
昨日までとは何もかもが違う世界で。
それでも今日という日は、当たり前のように続いている。
喜一はもう一度だけ空を見上げた。
答えは、まだ何一つ見つかっていない。
自分がなぜここにいるのかも。
この先に何が待っているのかも。
それでも。
今は歩こうと思った。
答えがないのなら。
答えのある場所まで、自分の足で行けばいい。
「喜一! 何をしておる、置いていくぞ!」
「あ、はい! 今行きます!」
朱音の声に呼ばれ、喜一は視線を戻した。
そしてゆっくりと歩き出す。
痛む足で。
傷だらけの身体で。
それでも昨日より、ほんの少しだけ前を向いて。
昼時を迎えた鳴上城の大広間――
鶴の間には、昨日までの凄惨な戦いが嘘だったかのような穏やかな時間が流れていた。
長く並べられた膳の上では椀物が白い湯気を立て、香ばしく焼かれた魚や艶やかな白米、海から運ばれたばかりの刺身が並んでいる。
温かな出汁の香りに混じって鼻を抜ける磯の匂いと、食器の触れ合う小さな音。
広間のあちこちから聞こえてくる兵達の話し声や笑い声は、戦いを生き延びた者達がようやく取り戻した日常そのものだった。
昨日、この城には怒号が響いていた。
血が流れ、壁が砕け、誰もが次の瞬間には命を失うかもしれなかった。それが今では、傷だらけの者達が肩を並べて飯を食い、くだらない話で笑っている。
そんな鶴の間の入口に、菱本朱音が姿を現した。
最初に気付いた兵が箸を止め、それにつられるように一人、また一人と姿勢を正していく。
やがて大広間にいたほぼ全員が食事の手を止め、朱音へ向かって一斉に頭を下げた。
「朱音様」
「御無事で何よりにございます」
全身には未だ幾重もの包帯が巻かれている。それでも朱音の背筋は真っ直ぐに伸び、昨日あれほどの傷を負った者とは思えぬほど、その立ち姿には紅ノ王としての気品が戻っていた。
朱音は少し困ったように皆を眺めると、軽く片手を上げた。
「よい。皆の者、食事を続けよ」
「――はっ!!」
まるで軍勢の号令だった。
その声量に、朱音の後ろを歩いていた喜一が思わず目を瞬かせる。だが兵達にとってはいつものことなのだろう。何事もなかったかのように再び箸を取り、止まっていた広間のざわめきがゆっくりと戻っていった。
その光景を見渡した朱音の目が、ほんの少しだけ細くなる。
昨日、自分が命を懸けて守ろうとしたものがそこにある。
都市でも、城でも、財でもない。
飯を食い、くだらない話をし、笑い合う者達の日常そのものだった。
「喜一、こっちだ」
朱音に手招きされ、喜一はその後ろをついていく。
広間の奥、上座に近付いたところで見知った顔が目に入り、喜一は思わず足を止めた。
宗次郎がいる。
それだけではない。
その向かいには巨大な身体を窮屈そうに座らせ、黙々と飯を食っているサラザイカ・クーラーがおり、その傍らには身体の至るところに包帯を巻いた副騎士長レデまで座っていた。
昨日まで殺し合っていた者達が、今は同じ広間で飯を食っている。
何とも奇妙な光景だった。
喜一の気配に気付いたのか、サラザイカが顔を上げる。
一瞬だけ視線が重なった。
その瞬間、昨日まともに受けた拳の感触が蘇り、喜一の身体が無意識に強張った。骨の奥まで響いた衝撃も、呼吸すら奪われた痛みも、まだ身体が覚えている。
だがサラザイカは何も言わなかった。
喜一を一瞥すると鼻から小さく息を吐き、何事もなかったように飯へ視線を戻す。レデも同様にこちらを見たものの、今さら戦意を見せる様子はなかった。
その時だった。
「喜一!」
宗次郎が勢いよく立ち上がった。
「お前、何処にいたんだ!? 探したんだぞ!」
その声に責めるような響きはなく、あるのは隠し切れない安堵だった。
「ああ……すまない、宗次郎。ちょっと外の空気を吸いたくてさ」
「……そうか」
宗次郎はそれ以上聞かなかった。
ただ喜一の顔をじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。
昨日の戦いだけではない。ここへ来るまでに喜一が見てきたものや失ったもの、その胸に抱えているもの全てを宗次郎が理解できるわけではない。それでも、今は無理に聞くべきではないことくらいは分かった。
「まあ……そんな時もあるよな」
そう言って軽く肩を叩かれ、喜一は僅かに目を伏せた。
「……ありがとう」
「何がだよ」
宗次郎が笑う。
その何気ないやり取りに、喜一の張り詰めていた心がほんの少しだけ緩んだ。
ふと辺りを見渡してみるが、昨日自分達を救った隻眼の剣豪――撫木宗明の姿はない。あの小柄な弓使い、雅楽の姿も見当たらなかった。
「宗明さん達は?」
「さあな。朝から見てない」
宗次郎が首を傾げたところで、女中が二人の前へ膳を運んできた。
「お待たせ致しました」
目の前へ置かれた料理を見た途端、喜一の腹が正直に鳴った。
艶のある白米に澄んだ汁物、香ばしく焼き上げられた魚と色鮮やかな煮物。その中央には、薄く切り分けられた新鮮な刺身が美しく盛り付けられている。
考えてみれば、まともに腹を満たしたのがいつだったのかも曖昧だった。
「いただきます」
喜一は箸を取り、まず刺身を一切れ口へ運んだ。
その瞬間、動きが止まった。
「……どうした?」
宗次郎が怪訝そうに見る。
喜一はゆっくりと咀嚼した。柔らかな身が舌の上でほどけ、魚そのものの甘みと僅かな脂が広がっていく。それを温かな白米と一緒に飲み込んだ瞬間、思わず笑みが零れた。
「……うまい」
もう一切れ箸で取る。
「あの時食べた定食も美味かったけど……この刺身、本当にうまいな」
「そうだろう?」
朱音がどこか得意げに笑った。
「幸風は商いだけの街ではないぞ。海の幸も自慢でな」
「朱音様」
宗次郎が呆れた顔を向ける。
「そんな得意げな顔してますけど、怪我人なんですからね」
「誰が怪我人だ」
「全身包帯だらけでしょうが」
「これは装飾だ」
「無理がありますよ」
周囲から笑いが起こった。
喜一も堪えきれず笑う。
すると少し離れたところから、さらに大きな笑い声が響いた。
「わっはっはっはっ! 紅ノ王、主はやはり面白い女だなァ!」
「黙って食え、サラザイカ殿」
「わっはっはっはっ!」
「騎士長……」
レデが心底疲れたように額を押さえる。
「頼みますから、今だけは静かに食ってください」
再び広間に笑いが広がった。
昨日まで敵だった者も、味方だった者も、皆どこかしらに包帯を巻いている。それでも同じ屋根の下で温かな飯を食べ、くだらないことで笑っている。
喜一は箸を止め、そんな光景をしばらく眺めていた。
――生きている。
あまりにも当たり前だったはずのことが、今は不思議なほど胸に沁みた。
温かな飯を食えること。
誰かの声が聞こえること。
隣に仲間がいること。
昨日までは、その全てが失われてもおかしくなかった。
だからなのだろう。
喜一はもう一度白米を口へ運び、今度はゆっくりと噛み締めた。
鳴上城――正門前
同じ頃、鳴上城の正門前には鶴の間とは対照的な静けさがあった。
修繕作業に励む兵達の掛け声もここまで来れば遠く、昼の陽光と、時折吹き抜ける風の音だけが辺りを満たしている。
その中央に、撫木宗明は一人立っていた。
正確には――一人ではなかった。
彼の正面には、もう一つの人影がある。
しかし、その輪郭はひどく曖昧だった。
陽炎のように揺らめき、時には水面に映った影のように歪む。顔も体格も、身に纏う衣服すら判然とせず、ただそこに“誰かがいる”という事実だけが辛うじて認識できる。
宗明は黙ってその人物の話を聞いていた。
時折、小さく頷く。
やがて話が終わると、残された右目を僅かに細めた。
「……なるほど。承知しました」
少し考えるような間を置いてから、静かに続ける。
「では、明日にでも出立致しましょう」
その返答を待っていたかのように、人影の輪郭が揺れた。
一陣の風が正門を吹き抜ける。
すると足元からゆっくりと姿が崩れ始め、胴、肩、頭へと順に白い霞へ変わっていく。最後にはその霞さえ風の中へ溶け、最初からそこには誰もいなかったかのように消えてしまった。
宗明は何も言わず、その場所を見つめ続けた。
やがて視線を上げる。
空は青い。
穏やかな雲が流れ、昨日の血戦など知らぬ顔で世界は続いている。
しかし、宗明の表情には僅かな憂いがあった。
長い間、止まっていた何か。
いつか動くと分かっていながら、それが今日ではないことをどこかで願っていた何か。
それが遂に動き始めた。
そんな目だった。
「宗明さん」
背後から声が届いた。
振り返らずとも誰なのかは分かる。
軽い足音と共に近付いてきたのは、小柄な身体に不釣り合いなほど大きな弓を背負った雅楽だった。
「……大丈夫そうですか?」
宗明はそこで初めて振り返り、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「ああ。大丈夫だ」
雅楽はじっとその顔を見た。
長く共にいる彼女には、その笑顔が本当に何もない時のものではないことくらい分かっていた。
けれど、問い詰めることはしなかった。
宗明もまた説明しようとはせず、代わりに鳴上城を見上げた。
その城内には今、日陰喜一がいる。
そして宗次郎もいる。
「雅楽よ」
「はい」
「支度を整えなさい」
声から先程までの柔らかさが消え、明鏡武士団を率いる者の声音へと変わった。
「喜一殿達を連れ、安須森将軍閣下の元へ急ぐ。明日にはここを発つ」
雅楽の瞳が僅かに見開かれる。
しかし理由を尋ねることなく、すぐに表情を引き締めた。
「承知しました。では、必要な物資を確認してきます」
「頼む」
雅楽は頷き、城内へ戻ろうとする。
だが数歩進んだところで、何かを思い出したように振り返った。
「宗明さん」
「何かな」
「……今度は作戦中に勝手にいなくならないでくださいよ?」
宗明は僅かに目を丸くした。
「善処しよう」
「絶対ですからね!」
頬を膨らませた雅楽は、念を押してから城内へ駆けていく。
その小さな背中が見えなくなるまで、宗明は静かに見送っていた。
やがて、その顔から笑みが消える。
先程まで霞の人影が立っていた場所へ視線を戻し、吹き抜ける風に黒い羽織を揺らしながら、右手を腰の刀へ添えた。
数え切れぬほどの死地を越え、幾度となく刀を抜いてきた手だった。
その指が、ほんの僅かに柄を握り締める。
日陰喜一。
あの男がこの世界へ現れてから、各地で何かが動き始めている。
偶然と呼ぶには出来すぎている。
だが、必然と断じるにはまだ何かが足りない。
宗明は長い間空を見上げていたが、やがて誰にも聞かせるつもりのなかった言葉を静かに零した。
「……運命か……」
その声は風に攫われ、誰の耳にも届かなかった。
この時、喜一はまだ鶴の間にいた。
温かな飯を食べ、宗次郎達と他愛のない言葉を交わし、昨日まで失いかけていた日常を噛み締めている。
だが、その旅路の先に何が待っているのかまでは知らない。
そして何より――自分という存在が、知らぬところで少しずつ世界を動かし始めていることを、喜一はまだ知らなかった。
第四地区・幸風での戦いは終わった。
傷は残った。分からないことも増えた。それでも喜一は生き延び、再び前へ進むための道を得た。
そして明日。
撫木宗明と雅楽に導かれ、喜一達は安須森将軍の待つ地へ向かう。
それは第四地区で起きた戦いの終わりであると同時に、この世界へ送られた意味へと近付いていく新たな旅の始まりでもあった。




