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コールドノヴァ~void〜  作者: 鯖虎
序章 新たなる世界
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第三十六話 出立





そして、次の日。


 朝の光が、鳴上城の病室へ柔らかく差し込んでいた。


 昨日まで絶え間なく聞こえていた修繕の槌音も、この時間ばかりはまだ疎らだった。


窓の外では幸風の街が少しずつ目を覚まし始め、遠くから商人達の声や荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。


 喜一は寝台の上で目を覚ましたまま、ぼんやりと天井を眺めていた。


 解毒剤のおかげで身体を蝕んでいた毒はほとんど抜けている。それでも、サラザイカ・クーラーとの戦いで負った傷までは消えてくれない。


寝返りを打つだけでも脇腹に鈍い痛みが走り、深く息を吸えば胸の奥が軋んだ。


 昨日、朱音から言われた言葉が頭に残っていた。


 ――自分が何のために歩いているのか。それだけは見失うな。


 目的。


 ニコレッタ所長達の行方を知ること。


 自分達の身に何が起こったのかを知ること。


 そして、グラントスがなぜ自分をこの世界へ送り込んだのか、その理由を知ること。


 その答えへ近付くためにも、まずは安須森義継に会わなければならない。


 そう考えていた時だった。


 病室の扉が静かに開いた。


 現れた二人を見て、喜一は僅かに身体を起こした。


「宗明さん……雅楽さん」


 撫木宗明と雅楽。


 二人とも既に旅装を整えていた。宗明はいつもの黒い羽織に刀を差し、雅楽の背には、その小柄な身体には不釣り合いなほど大きな焦げ茶色の弓がある。足元には必要最低限の荷がまとめられており、どう見ても挨拶だけに来た様子ではなかった。


 宗明の表情も普段より硬い。


 その顔を見ただけで、喜一は何かを察した。


「喜一殿」


 宗明が静かに口を開いた。


「将軍閣下の元まで、我々が案内します。宗次郎殿も共にです」


「……今日ですか?」


「ええ」


 宗明は迷いなく頷いた。


「少々、急を要する状況になりましてな。身体が万全でないことは承知しておりますが、支度が済み次第、今日にでも第四地区を発ちます」


「今日……」


 思わず、自分の身体へ視線を落とす。


 喜一は布団を退け、ゆっくりと身体を起こそうとした。


「ッ……」


 途端、脇腹から胸へ鋭い痛みが走った。


 反射的に顔が歪む。


「まだ身体が……」


「喜一さん!」


 すぐに雅楽が駆け寄った。


 肩へ手を添え、倒れそうになった身体を支える。


「無理しないでください!」


 その声には、隠しようのない心配が滲んでいた。


 喜一が苦笑する。


「でも、今日出るんですよね?」


「それは……そうですけど」


 雅楽は少し困った顔をした後、何かを決意したように胸を張った。


「でしたら、私がおぶって行きます!」


「……はい?」


「喜一さんが自分で歩けるようになるところまでです。道中は私がおぶりますから、その間に少しでも身体を休ませてください!」


 あまりに迷いのない言葉に、喜一は一瞬返事を失った。


 宗明が横から静かに口を挟む。


「雅楽。本人の意向も聞かず決めるものではありませんよ」


「だって、この身体で歩かせる方が無茶ですよ!」


「それはそうですが」


「だったら決まりです!」


「……強引ですね」


 喜一が思わず漏らすと、雅楽は少し頬を膨らませた。


「心配してるんです!」


 その言葉には思わず喜一も笑ってしまった。


 しかし、胸の奥には別の感情も生まれていた。


 ここまで急ぐということは、状況は決して楽観できるものではないのだろう。


 昨日の一件だけではない。


 自分の知らない場所で、何かが動いている。


 それも、自分を中心として。


 喜一は小さく息を吐き、二人へ頷いた。


「分かりました。お願いします」


 そして、すぐに付け加える。


「ただ……宗次郎も怪我をしています。俺だけじゃなく、あいつのことも気遣ってやってください」


 宗明の表情が僅かに緩んだ。


「承知しております」


「もちろんです!」


 雅楽も力強く頷く。


「では、宗次郎殿にも出立の件を伝えて参ります。喜一殿はそれまで支度を」


「はい」


 二人が病室を出ていく。


 扉が閉じると、再び静けさが戻った。


 喜一はしばらく、その扉を見つめていた。


 ようやく。


 ようやく前へ進める。


 安須森義継。


 この異国の地を治める大将軍。


 彼に会えば、何かが分かるかもしれない。


 自分のこと。


 この時代のこと。


 そして、自分達がなぜここへ辿り着いたのか。


「……将軍に会おう」


 喜一は小さく呟いた。


「そこで全部、聞くんだ」


 不思議と身体の奥が熱くなった。


 傷は痛む。


 身体は重い。


 それでも、恐怖とは違う震えがあった。


 武者震いという言葉が一番近いのかもしれない。


 喜一は拳を握った。


 その時だった。


 再び病室の扉が開く。


「……?」


 誰かが戻ってきたのだと思った。


 宗明か。


 雅楽か。


 だが。


 扉の向こうに立っていた二人を見た瞬間、喜一の全身が強張った。


「――ッ」


 無意識だった。


 身体が先に反応した。


 巨大な男。


 そして、その横に立つ細身の中年男性。


 サラザイカ・クーラー。


 レデ。


 第四地区騎士団長と、その副長。


 数日前。


 命を奪い合った相手だった。


 朱音を叩き潰し。


 深亥を倒し。


 朝座を傷付け。


 そして自分自身も、その拳によって廊下まで吹き飛ばされた。


 理屈で考えるより先に、あの時の衝撃が身体へ蘇る。


 喜一の指が僅かに震えた。


 サラザイカはそれに気付いたのだろう。


 いつもの豪快な笑い声を上げることもなく、静かに喜一を見た。


 そして。


「喜一よ」


 低い声だった。


「……済まなかった」


「……え?」


 喜一は耳を疑った。


 サラザイカ・クーラーが頭を下げていた。


 あの怪物が。


 あれほど豪快に笑いながら自分達を圧倒していた男が。


「謝る……?」


 思わず言葉が漏れる。


 なぜ。


 何があった。


 喜一の疑問を察したように、サラザイカは顔を上げた。


「この国に――仇なす者と聞いていてな」


 喜一の表情が止まった。


「……仇なす者?」


「ああ。ゆえに捕縛を優先した。結果として少々……いや、随分と手荒い真似になった」


「少々どころじゃありませんでしたけどね」


 横からレデが淡々と突っ込む。


「……ぬ」


 サラザイカが黙る。


 その妙な間に、喜一の緊張がほんの少しだけ緩んだ。


 サラザイカは咳払いを一つすると、改めて喜一を見る。


「だが、実際に主と刃を交えて分かった」


 その眼差しには、戦っていた時とは違うものがあった。


「俺が見る限り、主はこの国に害をなすような男ではない」


 一拍置き、隣を親指で示す。


「レデも同じ考えだ」


「ええ」


 レデが静かに頷いた。


 だが。


 喜一の胸には別の疑問が生まれていた。


 ――仇なす者と聞いていた。


 誰から?


 自分がこの時代へ来て、まだそれほど時間は経っていない。


 にもかかわらず、第七地区から第四地区へ来た時点で既に重界騎士団は自分の存在を把握していた。


 しかも、ただ知っていたのではない。


 捕縛対象として。


 異常だった。


 情報が伝わる速度が、あまりにも早すぎる。


「……誰が」


 喜一の眉間に皺が寄る。


「誰が俺を、そんなふうに……」


 レデがその問いを遮るように口を開いた。


「喜一君」


 いつもの気怠げな口調。


 しかし、その目だけは真剣だった。


「ある程度、話は聞いております」


 喜一が顔を上げる。


「これから君は、この国の王――安須森義継将軍に会いに行くのでしょう?」


「……はい」


 静かに頷く。


 レデは一度だけサラザイカへ目を向けた。


 何かを確かめるような視線だった。


 そして再び喜一を見る。


「無事に謁見できることを祈っていますよ」


「ありがとうございます」


「それと……」


 そこでレデの声が変わった。


 柔らかさが消える。


 細い目が、僅かに険しくなる。


「一つだけ忠告しておきます」


 病室の空気が静まった。


「重界騎士団総騎士長には――気を付けてください」


 喜一の表情が曇る。


「総騎士長……?」


「ええ」


 レデは淡々と続けた。


「我々は君と直接会った。刃も交えた。だからこそ、今は君という人間を多少なりとも理解したつもりです」


 窓から差し込む朝日が、レデの横顔を照らしていた。


「しかし、君を知らぬ者は違う」


 その言葉に、喜一は黙る。


「力を持つ者ほど、君を見た時に感じるでしょう」


 レデは言葉を探すように、僅かに間を置いた。


「――異質、と」


 その二文字が妙に重かった。


「異質……」


 喜一が繰り返す。


「そうです」


 レデは頷いた。


「何者なのか分からない。何を持っているのかも分からない。理解しようとしても、既存の尺度では測れない」


 喜一の脳裏に、あの戦いが蘇った。


 サラザイカの鉱石の継ぎ目が見えた。


 足元の血。


 崩れ落ちた天井。


 偶然が、偶然を呼んだ。


 そして、自分の身体から溢れた白い靄。


 自分自身ですら、あれが何だったのか説明できない。


「人は理解できないものを恐れる」


 レデの声が響く。


「まして、それが力を持つ可能性があるとなれば尚更です」


 喜一の指先が僅かに動いた。


「総騎士長も、おそらくその一人なのでしょう」


「……だから俺を捕まえようと?」


「少なくとも、我々はそう判断していました」


 レデはそこで小さく息を吐いた。


「しかし、それは君を知らないからだからです」


 喜一が顔を上げる。


「君が何を考え、何を恐れ、何を守ろうとしているのか。そこまで知れば、見方が変わる者もいる」


 サラザイカが腕を組み、黙って聞いている。


「我々がそうだったようにね」


 レデの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かんだ。


「これから君の前には、立ち塞がる者が増えるかもしれない。君という存在を恐れる者。利用しようとする者。排除しようとする者も現れるでしょう」


 その言葉は決して優しくはなかった。


 だが、だからこそ喜一の胸へ残った。


「それでも、諦めず前へ進んでください」


 レデは静かに言った。


「知られていないのであれば、知ってもらえばいい。誤解されているのであれば、自分自身で覆せばいい」


 喜一は何も答えられなかった。


 昨日、朱音から言われた言葉と重なる。


 目的を見失うな。


 そして今。


 諦めず、前へ進め。


 この世界へ来てから、何度も自分へ問い続けてきた。


 なぜ自分なのか。


 なぜこんな目に遭うのか。


 だが、その答えを待っているだけでは何も変わらないのかもしれない。


 その時。


「喜一!!!」


 突然、病室へ響く大声。


「っ!?」


 喜一が驚いて顔を上げる。


 サラザイカだった。


 先程までの神妙な顔はどこへやら。


 いつもの豪快な笑みが戻っている。


「お主が困った時は、我々が力を貸そう!」


「……え?」


「わっはっはっはっ!」


 病室が揺れそうな笑い声。


「最初に見た時は、何とも不思議な雰囲気を持つ奴だと思った! 得体が知れぬ。何をするか分からん。だから警戒もした!」


 巨大な手で自分の胸を叩く。


「だが、なあに!」


 豪快に笑う。


「刃を交えてみれば分かることもある!」


 喜一は目を瞬いた。


「主は仲間が倒れれば怒る。自分が傷付いても前へ出る。力が無くとも誰かを守ろうとする」


 サラザイカの笑みが、少しだけ穏やかなものへ変わった。


「俺はそういう奴を嫌いではない」


 それは、騎士団長なりの最大限の謝罪だったのかもしれない。


「ゆえに、困った時は声を掛けろ!」


 サラザイカは親指で自分の胸を指した。


「第四地区団長サラザイカ・クーラーが、主に手を貸してやる!」


「団長」


 レデが呆れたように口を挟む。


「昨日まで捕縛しようとしていた相手ですよ。よくそんな偉そうに言えますね」


「細かいことを気にするな!」


「細かくないでしょう」


 喜一は二人を見つめていた。


 数日前まで。


 目の前の二人は敵だった。


 命を奪われるかもしれない相手だった。


 今でも、完全に信用できたわけではない。


 聞きたいことも残っている。


 誰が自分を「仇なす者」と呼んだのか。


 なぜこれほど早く自分の情報が広まっているのか。


 総騎士長とは何者なのか。


 何より――自分の中にある「異質」とは何なのか。


 疑問は減るどころか、増えていた。


 それでも。


「……ありがとうございます」


 喜一は静かに頭を下げた。


 サラザイカの目が僅かに見開かれる。


「昨日のことを忘れたわけじゃありません」


「うむ」


「朱音さん達が傷付いたことも」


「……うむ」


「俺も、死ぬかと思いましたし」


「それは……済まん」


 さすがのサラザイカも少し気まずそうに目を逸らした。


 喜一はそんな姿を見て、ほんの僅かに笑った。


「でも、こうして直接話してくれたことには感謝します」


 レデが静かに微笑む。


 サラザイカは数秒黙った後――。


「わっはっはっはっは!!」


 やはり最後には豪快に笑った。


 喜一は窓の外へ目を向けた。

 

 それから、しばらくして。


空には雲一つない青が広がり、真昼の陽光が鳴上城の瓦屋根を白く照らしていた。


 城下からは、人々の声が絶え間なく聞こえてくる。

 荷車を引く音。

 商人達の呼び声。

 金槌を振るう乾いた音。

 

 鳴上城の正門。


 そこには既に、旅立ちの支度を整えた者達が集まっていた。


 撫木宗明。


 雅楽。


 そして――。


「……遅いぞ、喜一」


 聞き慣れた声に、喜一は顔を上げた。


「宗次郎」


 門柱へ背中を預けるようにして、一人の武士が立っている。


 宗次郎だった。


 身体の至るところに包帯が巻かれていた。


 右肩。


 脇腹。


 腕。


 毒こそ抜けているものの、その顔にはまだ疲労の色が濃い。


 それでも腰には刀。


 背には旅支度。


 どう見ても、ここに残るつもりなど最初からない格好だった。


 喜一は思わず眉を寄せる。


「お前……大丈夫なのか?」


「それはこっちの台詞だ」


 宗次郎が鼻で笑った。


「鏡見てから言え。俺より酷ぇぞ」


「いや、俺は……」


「昨日、廊下まで吹っ飛ばされた奴が何言ってんだ」


「……それ、みんな言うな」


 喜一が苦笑する。


 宗次郎も笑った。


 ほんの数日前までなら、こんな会話をすることなど想像もしていなかった。


 出会った場所も違う。


 生きてきた時代さえ違う。


 それでも今では、互いが傷だらけになっている姿を見るだけで、妙な安心感があった。


 ――生きている。


 それだけでよかった。


 喜一は宗次郎の隣へ並ぼうと、一歩踏み出した。


 だが。


「……ッ」


 身体の奥に鋭い痛みが走った。


 思わず足が止まる。


 宗次郎の表情から笑みが消えた。


「喜一」


「大丈夫だ」


「どこがだよ」


「歩けるって」


 そう言ってもう一歩踏み出そうとした、その時だった。


「駄目です!」


 背後から雅楽の声が飛んだ。


 喜一が振り返る。


 小柄な身体に焦げ茶色の大弓を手に持った雅楽が、頬を膨らませながらこちらを見ていた。


「喜一さん。さっき約束しましたよね?」


「いや……でも、少しくらいなら」


「駄目です!」


「まだ何も言ってないんですけど」


「どうせ『歩けます』って言うつもりでしょう!」


「……」


 図星だった。


 横で宗次郎が吹き出す。


「乗せてもらえよ」


「お前な」


「昨日まで死にかけてた奴が意地張ってどうすんだ」


「お前も死にかけてただろ」


「俺は武士だからな」


「便利だな、その理屈」


 宗次郎が笑う。


 すると雅楽が今度は宗次郎へ向き直った。


「宗次郎さんもです!」


「……俺?」


「あなたも怪我人なんですよ! 喜一さんのこと言えませんからね!」


「いや、俺は――」


「絶対ですよ!」


「……はい」


 勢いに押され、宗次郎が黙る。


 宗明がその様子を見ながら、小さく息を吐いた。


「雅楽。出発前から騒がない」


「宗明さんは黙っててください!」


「なぜ私まで怒られるのでしょうな……」


 そんなやり取りの末。


 喜一は結局、雅楽の背に負われることとなった。


「……本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫です!」


 雅楽は即答した。


 喜一の身体を背負い直し、両脚をしっかりと支える。


 小柄な身体。


 その背中へ自分の体重を預けることに、喜一はどうしても申し訳なさを感じてしまう。


「重かったら、すぐ言ってください」


「重くありません!」


「でも……」


「喜一さん」


 雅楽が少しだけ振り返った。


「今は休むのも仕事です」


 その一言に、喜一は黙った。


「……分かりました」


「はい!」


 嬉しそうな返事。


 横を歩く宗次郎がニヤニヤしている。


「何だよ」


「いや?」


「笑ってるだろ」


「別に」


「絶対笑ってるだろ」


 そんな二人を見ながら、宗明が旅装の最終確認を終える。


「準備はよろしいですかな」


 宗明が振り返った。


「ここから先、不知火王都まで決して短い道程ではありません。お二人とも本来ならば、もう数日は療養していただきたいところですが……」


 残された右目が喜一と宗次郎を見る。


「将軍閣下より、可能な限り早くお連れするよう申し付けられております」


「……分かっています」


 雅楽の背中から、喜一が頷いた。


 宗次郎も無言で頷く。


 喜一はそのまま、ふと周囲を見渡した。


 鳴上城。


 数日前。


 自分はここに運ばれてきた。


 疑われ。


 毒を盛られ。


 捕らえられ。


 戦い。


 死にかけた。


 それでも。


 この場所で出会った人達がいる。


 自分を守るために槍を振るった者がいる。


 斧を振るった者がいる。


 薙刀を握った者がいる。


 そして。


 自分を信じてくれた者がいる。


 不思議なものだった。


 最初は見知らぬ街だったはずなのに。


 いざ離れるとなると、胸の奥に僅かな寂しさがあった。


「喜一」


 声がした。


 雅楽の背中から振り返る。


 城門の奥から、朱音が歩いてくる。


 その後ろには朝座と深亥。


 さらに少し離れて杉田冬馬の姿もあった。


 朱音はまだ包帯姿だった。


 それでも紅い髪を整え、城主として背筋を伸ばしている。


「朱音さん……」


「見送りくらいさせよ」


 朱音が微笑む。


 そして雅楽に背負われている喜一を見ると、僅かに口元を緩めた。


「随分と大切に運ばれておるではないか」


「……言わないでください」


「ははは。よいではないか。病み上がりなのだから」


 朱音の笑みに、喜一も困ったように笑った。


「随分と慌ただしい出立になりましたね」


「ああ」


 朱音は頷く。


 そして、その表情を少しだけ引き締めた。


「――喜一」


 長い紅髪だけが、風を受けて静かに揺れている。


「……朱音さん?」


 朱音は何も言わなかった。

 ただ喜一を見ていた。


 ほんの数秒。

 それなのに。

 妙に長く感じられた。


 やがて朱音は、小さく息を吐いた。


「……本当に行くのだな」


 喜一は少し驚いた。

 昨日までの朱音なら。


 ――行ってこい。


 そう豪快に送り出すと思っていた。

 だからこそ、その一言が意外だった。


「はい」


 喜一は答えた。


「行きます」


「……そうか」


 朱音が目を細める。

 その視線が喜一から宗次郎へ。

 宗明へ。

 雅楽へ。

 そして再び、喜一へ戻った。


「安須森様に会えば、おそらく今までより多くのことを知ることになる」


 静かな声だった。


「お前が知りたかったことも。知りたくなかったこともな」


 喜一は黙って聞いていた。


「答えを知るというのは、必ずしも救いではない」


 朱音は自らの胸元へ手を添える。


「時には知らなかった頃へ戻りたいと願うほど、重い真実もある」


 喜一の表情が僅かに曇る。

 だが。


「それでも」


 朱音は続けた。


「お前は行くのであろう?」


 喜一は朱音を見つめた。

 そして。


「……はい」


 ゆっくりと頷いた。


「怖いです」


 自然と、そんな言葉が出た。

 宗次郎が喜一を見る。

 雅楽も少しだけ振り返った。


「正直……これ以上何が出てくるのか分かりません。俺がこの世界に来た理由も、ニコレッタ所長達のことも……知った結果、後悔するかもしれない」


 一度、言葉を切った。


「でも」


 喜一は朱音を見る。


「知らなきゃいけない気がします」


 その瞳には、まだ迷いがあった。

 恐怖もある。

 それでも。


「覚悟はできています」


 朱音は何も答えなかった。

 ただ、喜一の顔を見ていた。

 やがて。


「……そうか」


 小さく笑った。


「ならば、もう余から言うことはないな」


 いつもの不敵な笑みではない。

 王としての笑みでもない。

 どこか優しい。

 そして少しだけ、寂しそうな笑顔だった。


「行ってこい、喜一」


「……はい」


「ただし」


「全てが終わったら、もう一度幸風へ来い」


 喜一が目を瞬く。


「……いいんですか?」


「何を言っておる」


 朱音は腕を組む。


「余の城をあれだけ壊しておいて、逃げられると思っているのか?」


「えっ」


「修繕費を払ってもらわねばならん」


「いやいやいや! 俺じゃないですよ!?」


 思わず雅楽の背中から身を乗り出した。


「ほとんど重解騎士団の方々やったんですよ!?」


「知らん」


「見てましたよね!?」


「余は頭を打って記憶が曖昧でな」


「絶対覚えてるでしょ!」


 朝座が豪快に笑い出した。


「はっはっはっ! 諦めな喜一! 朱音嬢がこうなったら何言っても無駄だ!」


「朝座さんまで!」


朝座に至っては声を上げて笑っていた。

雅楽まで肩を震わせている。


「ちょ、雅楽さん!? 背負ってる時に笑わないでください! 痛い、痛い!」


「あははっ……す、すまね……!」


 その光景を見て。

 朱音も笑った。


「はははは!」


 ほんの数日前。

 同じ場所で。

 誰かが血を流していた。

 誰かが叫んでいた。

 誰かが命を懸けていた。


 それが今は。

 こうして笑っている。

 喜一は、そのことが妙に嬉しかった。



 深亥と杉田も肩を震わせている。

 宗次郎も笑っていた。


 和やかな雰囲気の中、宗明が静かに告げる。


「朱音殿。名残惜しくはありますが、そろそろ」


「分かっておる」


 朱音が頷いた。

 そして最後に。

 喜一を見る。


「行ってこい、喜一」


 もう冗談はなかった。


「……はい」


「生きて戻れ」


 短い言葉だった。

 けれど。

 喜一には、それで十分だった。


「必ず」


そして

 宗明が先頭へ立つ。


 その後ろで雅楽が腰を落とし、喜一を背負い直した。


「よいしょ……っと。喜一さん、痛むところありませんか?」


「大丈夫です。すみません、雅楽さん」


「謝らないでください。今はちゃんと休む!」


「……はい」


 少し離れたところでは、宗次郎も旅装を整えていた。


 刀の位置を確かめる。

 傷はまだ癒えていない。

 それでも、その立ち姿には武士としての芯が戻り始めていた。


「行くぞ、喜一」


「ああ」


 喜一が頷く。

 

 宗明が静かに歩き出す。


 雅楽も喜一を背負ったまま、それに続いた。

 宗次郎が隣へ並ぶ。


 一行が鳴上城の門を抜けていく。

 喜一は雅楽の背中から。

 もう一度だけ振り返った。

 朱音はまだそこにいた。


 朝座も。

 杉田も。

 兵達も。

 誰一人として、すぐには城へ戻ろうとしなかった。

 ただ。

 遠ざかっていく喜一達を見送っている。


 喜一は手を上げた。

 朱音も手を上げる。

 声はない。


 けれど。

 それで十分だった。


 少しずつ。

 少しずつ。

 距離が開いていく。

 朱音の姿が小さくなる。


 鳴上城が遠ざかる。

 やがて街の建物に遮られ、朱音の姿が見えなくなる――。


 その直前。

 喜一には。

 朱音がほんの少しだけ笑ったように見えた。


 そして。

 喜一の姿が完全に見えなくなってから。

 朱音はゆっくりと上げていた手を下ろした。


「……行ったか」


 ぽつり。


 誰に聞かせるでもなく呟く。

 朝座が隣に立つ。


「寂しいですか?」


「馬鹿を言え」


 朱音は即答した。


「静かになって清々するわ」


「そうですか」


「そうだ」


 朝座は何も言わなかった。

 ただ笑っている。


「……なんだ、その顔は」


「いえ。別に」


「なら笑うな」


「これは失礼」


 朱音は鼻を鳴らした。

 そして。

 もう一度だけ。

 喜一達が消えていった街道の先を見る。


「……達者でな、喜一」


 小さな声だった。

 もう。

 本人には届かない。

 それでも朱音は続けた。


「お前が何者であろうと――最後にお前を決めるのは、お前自身だ」


 風が吹き

 紅い髪が舞う。


「だから……」


 朱音は目を細める。


「生きて辿り着け」


 そして。

 その頃。

 遠く離れ始めた街道。

 雅楽の背に揺られながら、喜一は前を見ていた。


「喜一」


 隣を歩く宗次郎が声を掛ける。


「なんだ?」


「寂しいのか?」


「……少しな」


「そうか」


「ああ」


 否定はしなかった。

 もう一度振り返りたい気持ちはあった。

 だが。

 喜一は振り返らなかった。


 朱音に言われたからではない。

 自分で決めたのだ。

 前へ進むと。


「宗次郎」


「ん?」


「行こう」


 宗次郎は少しだけ笑った。


「ああ」


 宗明が先を歩く。

 雅楽が喜一を背負う。

 その横を宗次郎が歩く。


 真昼の陽光の下。

 四つの影が街道へ伸びていた。


 第四地区――幸風。

 そこで得たものは。

 答えではなかった。


 仲間だった。

 信頼だった。


 そして。

 ――帰って来られる場所だった。


 喜一は静かに目を閉じる。

 雅楽の背中が温かかった。

 もう少しだけ。


 今は、この背中を借りよう。

 傷が癒えたなら。

 また自分の足で歩けばいい。

 そしていつか。

 全てを知ったその時には。

 胸を張って、ここへ戻ってこよう。



 目指すは――第零地区、不知火王都。

 大将軍、安須森義継の待つ場所。


 まだ見ぬ真実へ。

 自らがこの時代に導かれた、その意味を知るために。



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