第三十三話 月夜の玉座
雅楽
清水 香澄
“風纏い”の異名を持つ、倭ノ国を代表する弓士の一人。
東北随一の弓使いとして知られ、
その射は針の穴をも射抜くと謳われるほど精密無比。
一度狙いを定めれば外すことはなく、
遥か遠方の標的すら確実に射抜くその技量は、
多くの武人たちから畏敬を集めている。
さらに弓術だけに留まらず、
合気道の達人としても名高い。
華奢で可憐な外見からは
想像もつかないほどの体術を誇り、
時には百人の男たちを相手にしてなお
圧倒すると語られる。
その才能はまさに天賦のもの。
弓術、体術、戦術眼のすべてに優れ、
近年急速に頭角を現した
新時代の実力者として注目を集めている。
彼女はかつて東北地方の出身であった。
しかし幼少期、故郷は星喰人の侵攻によって壊滅。
家族も住む場所も失い、
難民として各地を流浪することとなる。
そんな彼女を救ったのが、
倭ノ国の大将軍・安須森義継であった。
安須森は身寄りのない彼女を養女として迎え入れ、
自らの娘同然に育て上げる。
過酷な過去を乗り越えた香澄は、
その恩に報いるため研鑽を重ね続けた。
そして今では、異国の地を代表する弓使いとして
その名を轟かせている。
風の流れを読み、
風と共に矢を放ち、
風のように敵を翻弄する。
――その優雅で美しい戦いぶりから、
人々は彼女をこう呼ぶ。
“雅楽” 清水香澄。
風を纏う乙女の一矢は、戦場の運命さえ射抜く。
医務室に静かな夜が訪れていた。
戦いの喧騒は遠く。
慌ただしく駆け回っていた医務班達の足音も
少しずつ落ち着きを取り戻している。
窓の外では月明かりが静かに差し込んでいた。
喜一はゆっくりと目を開く。
身体は重い。
全身が痛む。
だが先程までのような毒の苦しさは薄れていた。
胸を焼いていた灼熱感も。
手足を蝕んでいた痺れも。
少しずつ消えている。
解毒剤が効き始めていた。
「……大丈夫か?」
隣から声が聞こえた。
宗次郎だった。
同じように天井を見上げている。
喜一は小さく笑った。
「大丈夫だ」
短いやり取りだった。
だが、それだけで十分だった。
互いに生きている。
それだけでよかった。
しばらく沈黙が流れる。
医務室の灯りが揺れている。
その静けさの中で、宗次郎がぽつりと呟いた。
「助かったな」
喜一はゆっくりと頷く。
「ああ」
その言葉には様々な意味が含まれていた。
朱音。
深亥。
朝座。
杉田。
誰一人欠けなかった。
多くの血が流れた。
多くの者が傷付いた。
それでも。
誰も死ななかった。
奇跡のような結末だった。
「……借りばかり増えていくな」
喜一が苦笑する。
宗次郎も小さく笑った。
「気にするな」
その言葉が妙に胸へ響いた。
喜一はしばらく黙る。
そして静かに答えた。
「ああ」
生きる。
それだけでいい。
それだけが今は一番難しい。
だが。
それでも生きる。
二人はしばらくこれからの話をした。
不知火王都。
安須森将軍。
宗明が言っていた話。
これから待つ旅路。
分からないことだらけだった。
だが今だけは考えるのをやめた。
身体が限界だった。
安心した途端に疲労が押し寄せてくる。
宗次郎が先に目を閉じた。
「……寝る」
「寝よう」
喜一も頷く。
窓の外では月が浮かんでいた。
穏やかな夜だった。
久しぶりに。
本当に久しぶりに。
二人は安心して眠りについた。
一方。
玉座の間。
そこには未だ二人の男が残されていた。
サラザイカ・クーラー。
レデ。
彼らは変わらずその場へ座っていた。
砕けた玉座。
崩れた柱。
瓦礫の山。
戦いの痕跡が至る所に残っている。
粉塵は既に晴れていた。
夕陽も沈み。
今は月だけがその惨状を照らしている。
静かな夜だった。
だからこそ。
足音はよく響いた。
――コツ。
――コツ。
玉座の間へ二人の人影が現れる。
撫木宗明。
そして雅楽。
二人は真っ直ぐ歩いてくる。
やがてサラザイカ達の前で立ち止まった。
宗明は余計な前置きをしなかった。
静かに。
だが鋭く問う。
「何故ですかな」
片目が細まる。
「何故、あの二人――いや」
一拍。
「喜一殿を連れて行こうとしたのですかな」
空気が張り詰める。
宗明の眼光は鋭かった。
まるで抜き身の刀。
その隣では雅楽が腕を組み、
黙って様子を見ている。
そして。
重苦しい沈黙の後。
サラザイカが口を開いた。
「何故か、か」
低い声。
「それは言えねえな」
即答だった。
宗明は黙る。
サラザイカを見る。
その顔は頑なだった。
意地ではない。
恐れでもない。
もっと別の何か。
揺るがぬ決意のようなもの。
それを宗明は感じ取っていた。
だから追及しない。
ただ見つめる。
すると。
サラザイカが小さく呟いた。
「あの者が”……”だからだ」
誰にも聞こえないほどの声。
だが。
宗明と雅楽には聞こえた。
その瞬間。
隣にいたレデがわざとらしく咳払いをした。
「ゴホン」
サラザイカは口を閉ざす。
宗明の目が僅かに細まる。
雅楽も表情を変えない。
だが。
二人とも理解していた。
今の言葉は決して聞き流して
良いものではなかった。
サラザイカは深く息を吐く。
「俺達には俺達の信念がある」
静かな声。
「お前達には分かるまい」
宗明は何も言わない。
ただ聞く。
だが。
その言葉を聞いた瞬間。
雅楽の眉がぴくりと動いた。
そして。
怒りを押し殺すように口を開く。
「今回の件」
静かな声だった。
だが。
その奥に怒りがある。
「無駄な血ぃ流れだごどまで、
わがんねぇんですか……?」
サラザイカは黙っている。
「おらたぢには事情がわがんねぇんです。」
雅楽は続ける。
「なんで重界騎士団長ともあろうお方が、こんなごどしてるのか……おらたぢには見当もつがねぇんですっちゃ」
その声が徐々に強くなる。
「我が民を危ねぇ目に遭わせだ」
「第四地区を戦場さしてしまった」
「多ぐの者を傷つげだ。」
一歩前へ出る。
「何より」
瞳に怒りが宿る。
「その身勝手が、一番許せねぇんです」
月明かりの中。
雅楽の声だけが響く。
「理由があるはずなんだべ」
一拍。
「んだがら今、こうして場を設げでるんです」
宗明は黙ったまま聞いている。
雅楽はサラザイカを見据えた。
「それでも」
一拍。
「まだ話す気はねぇんですか?」
怒っていた。
誰の目にも分かるほど。
それは戦士の怒りではない。
民を守る者の怒りだった。
サラザイカはしばらく沈黙する。
そして。
低く答えた。
「多少の犠牲も厭わないと見るしかなかろう」
その瞬間だった。
雅楽の瞳から温度が消えた。
怒気が溢れる。
空気が震える。
「……っ」
踏み出そうとする。
だが。
肩へ手が置かれた。
宗明だった。
雅楽が振り返る。
宗明は静かに首を横へ振る。
それだけだった。
それだけで充分だったのだ。
雅楽は足を止め、煮え滾る思いを
抑えようとしている。
月夜の玉座の間に。
重苦しい沈黙が落ちる。
やがて。
宗明が静かに口を開いた。
「事情は分かりました」
「宗明さん!?」
雅楽が思わず叫ぶ。
その声には怒りだけではなかった。
悲しみ。
苦しみ。
やり切れなさ。
様々な感情が混ざっていた。
宗明は雅楽を見る。
そして。
安心させるように微笑んだ。
穏やかな笑みだった。
雅楽は言葉を失う。
宗明は再び前を向いた。
「これは」
静かな声。
「私の一存で判断できる話ではありません」
一拍。
「安須森将軍閣下へ報告します」
サラザイカもレデも黙って聞いている。
「その上で」
宗明は続ける。
「閣下の判断を仰ぎましょう」
静かな結論だった。
それ以上でも。
それ以下でもない。
雅楽の肩から力が抜ける。
怒りは消えていない。
納得もしていない。
だが。
宗明の言葉なら信じられる。
そう思えた。
月明かりが差し込む。
崩れた玉座の間。
敗者と勝者。
互いに傷付いた者達が向かい合う中。
戦いの後に残された問題は。
静かに。
だが確実に。
次の段階へと進もうとしていた。
重苦しい沈黙が玉座の間を包んでいた。
誰も言葉を発さない。
崩れた柱。
砕けた床。
戦いの爪痕だけが静かに残されている。
月明かりが瓦礫を照らし。
白銀の光が静かに広がっていた。
その中で。
宗明はゆっくりと口を開く。
「サラザイカ殿」
穏やかな声だった。
責めるでもなく。
見下すでもなく。
ただ一人の武人へ向ける声。
「あなた達も、ここで休まれて行かれよ」
サラザイカが顔を上げる。
宗明は続けた。
「特に」
片目がレデへ向く。
「レデ騎士副長」
静かな声音。
「しっかりと療養されるとよい」
レデは一瞬だけ目を丸くした。
そして苦笑する。
「……心配されるとは」
乾いた笑みだった。
だが。
どこか安堵も混じっていた。
身体は限界だった。
肋骨は折れ。
内臓も傷付いている。
立っていること自体が不思議なほどだ。
それでも。
副長として気を張り続けていた。
だが今。
宗明の言葉を聞いた瞬間。
その張り詰めた糸が少しだけ緩んだ。
「情けない話ですな」
レデは壁へ背を預ける。
「歳は取りたくない」
小さく笑った。
その横で。
サラザイカも深く息を吐いていた。
大きな胸が上下する。
今更になって全身の痛みが押し寄せてきたのだろう。
「わっはっは……」
笑い声も先程までの勢いは無い。
疲労の滲む声だった。
「全く」
巨大な身体を瓦礫へ預ける。
「今日は酷い目にあったわ」
そう言って天井を見上げる。
いや。
天井は既に崩れていた。
そこには夜空が広がっている。
無数の星々。
静かな月。
その光が怪物の横顔を照らしていた。
サラザイカは目を細める。
「……失敗だな」
誰へ言うでもなく。
ぽつりと呟いた。
レデも否定しなかった。
宗明も何も言わない。
それで十分だった。
勝敗は既に決している。
言葉を重ねる必要などなかった。
宗明は静かに踵を返す。
「では」
一歩。
また一歩。
出口へ向かう。
その後ろを雅楽が続いた。
去り際。
雅楽は一度だけ振り返る。
サラザイカを見る。
レデを見る。
何か言いたそうだった。
だが結局何も言わなかった。
宗明の後を追う。
やがて二人の足音は遠ざかっていった。
玉座の間に残るのは。
サラザイカとレデだけ。
静かな夜だった。
戦いは終わった。
血も流れた。
怒りもぶつかった。
信念も交差した。
だが今は。
誰も剣を握っていない。
誰も拳を振り上げていない。
ただ疲弊した者達だけがそこにいた。
月明かりが差し込む。
崩れた玉座を照らす。
瓦礫を照らす。
そして。
生き残った者達を静かに照らしていた。
レデは壁へ寄り掛かりながら目を閉じる。
サラザイカもまた腕を組み、静かに座り込む。
誰も喋らない。
ただ夜風だけが吹き抜けていった。
その風はどこか優しかった。
まるで。
長い戦いを終えた者達を労うかのように。
夜は更けていく。
月は高く昇り。
やがてゆっくりと西へ傾き始める。
そして――
誰も知らぬまま。
静かに。
確実に。
次の夜明けが近付いていた。
血に染まった第四地区にも。
傷付いた者達にも。
それぞれの想いを抱えた者達にも。
平等に。
新たな朝は訪れようとしていた。




