第三十二話 それぞれの想い
刹切
撫木 宗明
明鏡武士団の武士長を務める、倭ノ国屈指の大剣豪。
彼が極めた抜刀術に由来するその一太刀は
刹那を斬り裂くとまで称され、抜刀したことすら
認識できぬまま敵が斬り伏せられることも少なくない。
あまりにも速く、あまりにも正確なその刀捌きは、
多くの剣士たちに畏怖の念を抱かせ
恐れられたことから“刹切”の異名を持つ。
普段は寡黙で冷静沈着。感情を表に出すことは少なく、常に周囲を見据えながら行動するしたたかな人物として知られている。
しかし、ひとたび戦場に立てばその姿は一変する。
卓越した剣技と研ぎ澄まされた感覚で
戦場の間合いを完全に支配し、
鋭く射抜くような眼光と圧倒的な気迫だけで
歴戦の剣豪すら萎縮させるという。
その剣は速さだけではなく、
相手の心を断つほどの威圧感を伴う。
また、かつてある強者との決闘に敗れ、
その際に受けた深い斬撃によって左目を失っている。
数多の強敵や化け物を斬り伏せてきたその実力は、
明鏡武士団の象徴にして、
倭ノ国が誇る大剣豪の一人として
広く知られている。
杉田は震える手で小瓶の栓を抜いた。
解毒剤。
透明な液体が、夕陽を受けて微かに光る。
「喜一、宗次郎……飲めるか」
返事は無い。
二人とも、おびただしい量の血を流していた。
喜一は額から血を流し、呼吸も浅い。
宗次郎も顔色が悪く、
刀を握っていた指から力が抜けかけている。
意識が落ちる寸前だった。
杉田は歯を食いしばり、
まず喜一の口元へ小瓶を運ぶ。
「頼む……飲んでくれ」
少しずつ。
こぼさぬように。
喉へ流し込む。
次に宗次郎へ。
宗次郎は薄く目を開けたが、
もう言葉を返す力も無かった。
それでも、解毒剤を飲み込む。
杉田はようやく息を吐いた。
だが、安堵するには早すぎる。
「宗明殿」
杉田は振り返る。
「至急、手当てをしなくては。
手を貸して頂けますか?」
撫木宗明は静かに頷いた。
そして、サラザイカへ視線を向ける。
「サラザイカ殿」
穏やかな声。
だが、その場を支配するだけの重みがあった。
「暫し、ここで待たれよ。この者らを医務室へ運んだ後、雅楽と共に再び玉座の間へ戻ります」
一拍。
「その時、事情を聞かせてもらいますゆえ。承知願えますかな」
サラザイカは深く頷いた。
先程までの白き闘気はもう無い。
汚れた黒いコートを払いながら、静かに腰を下ろしている。
「……承知した」
レデもまた、壁にもたれたまま抵抗する
素振りを見せなかった。
敗北を受け入れた者の沈黙だった。
「さあ」
宗明は杉田へ言う。
「喜一殿と宗次郎殿を医務室へ運びましょう」
杉田が喜一を抱える。
宗明が宗次郎を抱え上げる。
そして二人は、崩壊した玉座の間を後にした。
廊下には血痕が続いていた。
朱音のものか。
深亥のものか。
朝座のものか。
あるいは、名も知らぬ兵達のものか。
赤い跡が、夕暮れの薄暗い廊下に
点々と残っている。
そこかしこには、騎士達に捕縛されていたであろう
城兵達がいた。
戦場は玉座の間だけではなかった事を痛感する。
縄を解かれている者。
負傷者に肩を貸す者。
包帯を巻かれる者。
倒れた仲間を励ます者。
嗚上城は、まだ戦場の熱を残していた。
だが、そこにはもう殺気は無い。
生き延びた者達の息遣いだけがあった。
やがて二人は医務室へ辿り着く。
杉田が扉を開けた。
中は慌ただしかった。
医師達が声を飛ばし。
医務班が包帯や薬を抱えて走り回り。
ベッドには負傷した兵達が横たわっている。
その奥。
朱音が眠っていた。
顔は青白い。
傷は深い。
だが、呼吸はある。
その隣には深亥。
同じく意識は無い。
そして、その傍ら。
包帯を巻いた朝座が椅子に腰掛けていた。
彼女は杉田達に気付くと、目を見開いた。
「杉田! 喜一! 宗次郎!」
その顔に、ようやく安堵が浮かぶ。
苦しみから解放されたような。
張り詰めていた糸が
少しだけ緩んだような表情だった。
朝座はすぐに医務班へ声を張る。
「杉田と宗明殿が連れてきた二人を
手当てしてくれ!」
医師と医務班が駆け寄る。
喜一と宗次郎はすぐにベッドへ寝かされ、
処置が始まった。
傷口を押さえられる。
包帯が巻かれる。
薬が塗られる。
血を拭われる。
二人とも意識は朦朧としていたが、
それでも命は繋がっていた。
朝座は椅子から立ち上がろうとして、
傷の痛みに顔を歪めた。
それでも深く頭を下げる。
「宗明殿」
声が震えていた。
「殿に代わり、この度は
助太刀頂き感謝申し上げます」
そして、喜一と宗次郎へも向き直る。
「喜一。宗次郎」
一拍。
「二人とも、済まなかった」
深々と頭を下げる。
朱音はまだ目覚めていない。
深亥も同じだった。
だからこそ。
朝座が代わりに頭を下げた。
その背中には、側近としての責任と悔しさが滲んでいた。
喜一は薄く目を開ける。
苦しそうに。
それでも笑おうとした。
「こちらこそ……です」
宗次郎も掠れた声で続ける。
「……助けられたのは、俺達の方だ」
朝座の顔が僅かに歪む。
泣きそうにも。
笑いそうにも見えた。
その時、宗明が静かに言った。
「朝座殿。頭を上げなさい」
朝座が顔を上げる。
宗明は朱音の眠るベッドへ視線を向けた。
「実は数日前、朱音殿より
伝令を頂いておりましてな」
「……え?」
朝座が目を見開く。
杉田も驚いたように顔を上げた。
「菱本様が……?」
二人とも知らなかった。
宗明は頷く。
「無理もありません」
静かな声。
「朱音殿は極秘に動いておられた」
医務室の喧騒の中、
その声だけは不思議と落ち着いて響いた。
「重界騎士団が見張っていた以上、
下手に動けば悟られる。
ゆえに、信頼する忍を使い、
密かに伝令を送ったのでしょう」
朝座は言葉を失う。
杉田も唇を噛んだ。
朱音は最初から。
全てを一人で背負っていたのだ。
騙すことも。
裏切ったように見せることも。
重界騎士団に従う振りをすることも。
その全てを。
「朱音殿の忍は安須森将軍閣下の元へ到着しました」
宗明は続ける。
「将軍閣下はその伝令を受け取り」
一拍。
「そして、私と雅楽が第四地区へ派遣された」
医務室に、しばし沈黙が落ちる。
朝座はゆっくりと朱音の方を見る。
眠ったままの主。
傷だらけの紅ノ王。
その静かな横顔に、今さらながら気付く。
彼女は負ける気などなかった。
最初から勝つために動いていた。
自分達すら欺き。
敵すら欺き。
最後の最後に、喜一達を
不知火王都へ向かわせる道を作るために。
朝座は拳を握る。
「……朱音嬢らしいな」
小さく呟いた。
その声には、悔しさと誇りが混じっていた。
杉田も目を伏せる。
「本当に……敵わない人だ」
喜一はベッドの上で、その言葉を聞いていた。
胸の奥が痛む。
また救われた。
また誰かの覚悟に生かされた。
だが今度は、その重さから目を逸らさなかった。
朱音が繋いだ。
深亥が繋いだ。
朝座が繋いだ。
杉田が繋いだ。
宗明と雅楽が間に合った。
そして宗次郎が隣にいてくれた。
その進んだ事実を噛み締め
喜一はベッドへ横たわったまま
天井を見上げていた。
そして。
撫木宗明が静かに立ち上がる。
包帯を巻かれる兵達へ一瞥を向け。
眠る朱音へ視線を落とし。
そして口を開いた。
「私は戻らねばなりません」
落ち着いた声だった。
その一言だけで。
部屋の空気が僅かに引き締まる。
杉田が顔を上げる。
朝座も視線を向けた。
宗明は変わらぬ表情のまま続ける。
「サラザイカ殿とレデ殿を待たせております故」
玉座の間。
まだ全てが終わった訳ではない。
事情聴取も必要だ。
今後の処遇も決めなければならない。
それは武士長たる宗明の役目だった。
その時だった。
――バァンッ!!
医務室の扉が勢いよく開いた。
室内の者達が一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、小柄な女性だった。
鮮やかな緑色の髪。
可憐な顔立ち。
年若く見える容姿。
だが。
その背には異様な存在感を放つ
焦げ茶色の大弓が背負われていた。
女性は宗明を見つけるなり、大声を上げる。
「宗明さん!どごさ行ってだんですか!」
医務室中へ響く声。
「すんげぇ探したっちゃよ!」
ずかずかと中へ入ってくる。
「作戦中にいぎなりいねぐなるがら、
ほんとたまげだっちゃよ!
すんげぇ心配したんだがら!」
可愛らしい声に似合わず方便が凄かった。
だが。
その奥には確かな怒りが含まれていた。
宗次郎が思わず瞬きをする。
喜一も目を丸くした。
この小柄な女性が。
100数名を捕縛したという人物なのか。
だが宗明は少しも慌てない。
まるで予想していたかのように。
静かに彼女を見た。
「雅楽」
穏やかな声。
「ここは医務室ですよ」
一拍。
「他の兵達も治療を受けている最中です」
そして。
少しだけ眉を下げる。
「少しだけ静かにしなさい」
その言葉に。
緑髪の女性――雅楽は頬を膨らませた。
明らかに不満そうだった。
「むぅ……」
子供のような顔。
だが誰も笑わない。
その背の大弓が。
彼女が何者であるかを物語っていた。
雅楽は宗明の傍まで歩いて来る。
腕を組み。
なおも不満げな表情を浮かべていた。
その様子を見ていた杉田が、
ふと思い出したように宗明へ尋ねる。
「そう言えば」
宗明が視線を向ける。
「何故、薬品庫にいたんです?」
当然の疑問だった。
宗明は静かに頷く。
「その件ですか」
そして少しだけ表情を和らげた。
「将軍閣下が、我らが旅立つ際に密かに指示を下されましてな」
朝座が顔を上げる。
杉田も驚いたように目を見開いた。
宗明は続ける。
「第四地区へ到着後」
「私は先に薬品庫へ向かうよう
命じられておりました」
「……薬品庫へ?」
杉田が聞き返す。
宗明は頷いた。
「朱音殿から送られた伝令に
記されていたのでしょう」
一拍。
「喜一殿と宗次郎殿へ
毒を盛る可能性が高い」
そして。
「解毒剤を探し、確保しておくように、と」
静寂。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
喜一が目を見開く。
宗次郎も驚いている。
朝座も。
杉田も同じだった。
宗明は淡々と語る。
「ですが、
その内容を知る者を増やす訳にはいかなかった」
静かな声。
「杉田殿」
「朝座殿」
「深亥殿」
順に名前を呼ぶ。
「そして第四地区の兵達も」
宗明の視線が病床の兵達へ向く。
「守らねばならなかった」
誰も言葉を返せない。
「もし誰か一人でも真実を知っていたなら」
「重界騎士団に悟られる危険があった」
尋問。
監視。
表情。
些細な違和感。
それだけで全てが崩れる可能性がある。
「故に」
宗明は静かに続ける。
「伝令の内容を知っていたのは、
安須森将軍閣下と私、雅楽だけです」
朝座が拳を握る。
悔しさ。
情けなさ。
そして誇らしさ。
様々な感情が胸の中で混ざり合う。
宗明は小さく頷いた。
「将軍閣下は慎重なお方です」
一拍。
「そして朱音殿もまた、非常に聡い」
静かな声だった。
「お二人とも、重界騎士団が正面から来る可能性も
考えていたのでしょう」
医務室が静まり返る。
朱音。
安須森。
二人の王。
二人の指導者。
その見えない場所での備えが。
結果として喜一達の命を救った。
「……全くこの人は」
朝座の口から
ぽつりと漏れる。
杉田も苦笑した。
「全部一人で背負うんだからな」
眠る朱音を見る。
その横顔は静かだった。
だが。
どれほどの重圧を抱えていたのか。
今なら少しだけ分かる気がした。
宗明はしばらく朱音を見つめていた。
そして。
今度は喜一と宗次郎へ視線を向ける。
二人とも治療を受けながら宗明を見ていた。
「それと」
宗明が口を開く。
その声音には先程までとは違う重みがあった。
「喜一殿」
「宗次郎殿」
二人は自然と姿勢を正した。
宗明は静かに続ける。
「お二人には話があります」
医務室の空気が変わる。
朝座も。
杉田も。
思わず宗明を見た。
「ですが今は傷を癒しなさい」
穏やかな声。
「身体を休めるのが先です」
一拍。
窓の外では夕陽が沈み始めている。
宗明はその光を見つめながら続けた。
「傷が治り次第」
残された片目が二人を捉える。
「改めて話をしましょう」
静かな言葉だった。
だが。
その先に待つ話が決して軽いものではないことを
誰もが感じ取っていた。
喜一は小さく頷く。
宗次郎も同じだった。
その時。
雅楽が不満そうに口を開いた。
「んだがら言ったっちゃね!」
腕を組む。
「宗明さんがふっといねぐなる時は、
だいたい将軍様の指示なんだべ。」
そして小さくため息を吐いた。
「毎回毎回、探すおらの身にも
なってほしいっちゃよ……。」
宗明は少しだけ口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも
小さい変化だった。
「すまなかったな」
その一言に。
雅楽は一瞬だけ目を丸くする。
そして。
髪を耳に掛けながらそっぽを向く。
「……べつに、わがってくれだら
それでいいっちゃ。」
だが。
その耳は少し赤かった。
朝座が思わず吹き出しそうになる。
杉田も苦笑する。
ほんの僅かだったが。
張り詰めていた空気が和らいだ。
彼女は気まずそうに視線を逸らし、
それから咳払いをひとつした。
「ほら、宗明さん。」
「行ぐっちゃよ。」
「サラザイカさんたぢを待だせでるんだがら。」
宗明は静かに頷きながらこちらを向く。
「では」
静かな声。
「私達は戻ります」
宗明が会釈をする
「改めて感謝致します」
朝座が深く頭を下げる
「ありがとうございました」
杉田も続く。
そして。
雅楽が背中の大弓を揺らしながら歩き出す。
宗明も後を追う。
二人の背中が扉へ向かう。
夕陽が差し込む。
その光が二人を赤く染めていた。
やがて。
扉が静かに閉じる。
医務室に再び静寂が戻った。
残された者達は。
それぞれの想いを胸に。
束の間の安堵へ身を委ねる。
長い戦いは終わった。
だが。
その先に待つ運命は、まだ始まったばかりだった。




