第三十話 勇気と偶然
――この絶望の中、喜一は思う。
このままでは全員がやられる。
朱音が倒れた。
深亥が倒れた。
朝座も血を流している。
宗次郎も毒に侵され、立つことさえ苦しそうだった。
皆が。
自分のために戦っていた。
自分を逃がすために。
自分を生かすために。
その事実が、喜一の胸を焼いていた。
熱い。
苦しい。
毒が回っているはずなのに。
身体は冷えていくはずなのに。
胸の奥だけが、焼けるように熱かった。
動けなかったはずの身体が震える。
膝が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
視界は霞み、床と天井の境目すら曖昧だった。
喜一は、ゆっくりと立ち上がる。
「……ッ」
足が笑う。
今にも崩れ落ちそうになる。
だが、倒れなかった。
倒れてはいけなかった。
喜一は前を向く。
震える足。
霞む視界。
今にも崩れ落ちそうな身体。
それでも。
不思議と恐怖は無かった。
いや。
違う。
恐怖ならあった。
ずっとあった。
今もある。
死ぬのは怖い。
痛いのも怖い。
目の前にいる怪物は、それこそ指先一つで自分を殺せるだろう。
だが。
その恐怖を。
喜一は知っていた。
脳裏へ蘇る。
第六地区。
崩壊した街並み。
血の匂い。
瓦礫の山。
そして。
麻生勝新。
かつて主の為に己の剣を奮った男。
喜一はあの時。
ただ震えることしか出来なかった。
足は動かず。
声も出ず。
ただ死を待つだけの存在だった。
あの時の自分は弱かった。
何も出来なかった。
ディナー・スピリタスが来なければ終わっていた。
救われなければ死んでいた。
誰かに守られなければ生き残れなかった。
その事実は今でも変わらない。
今だってそうだ。
朱音が戦った。
深亥が戦った。
朝座が血を流した。
宗次郎が命を懸けた。
皆が守ってくれた。
結局。
自分は何も変わっていないのではないか。
その考えが胸を過った。
だが。
今は違う。
変わっていないのではない。
変わりたいのだ。
変わらなければならないのだ。
あの時。
麻生勝新を前にして感じた絶望。
怪物を前にした時の無力感。
自分には何も出来ないという現実。
あの壁は。
今も目の前にある。
サラザイカ・クーラー。
重界騎士団長。
麻生勝新とは違う。
だが同じだ。
人の理から外れた怪物。
越えられない壁。
届かない高み。
だからこそ。
喜一は拳を握った。
指先から血が滲むほど強く。
歯を食いしばる。
胸の奥が熱い。
燃えるように。
叫ぶように。
誰かを守るために立つ。
その違いだけは。
確かに心にあった。
喜一は荒桜を握る。
震える手。
頼りない腕。
それでも。
その瞳だけは真っ直ぐだった。
目の前にいる怪物を見据えていた。
その時だった。
心の奥底で、誰かの声が響いた気がした。
優しく。
穏やかに。
けれど確かに、背中を押すように。
――さあ、行きなさい。
誰の声かは分からない。
幻聴かもしれない。
毒が見せた夢かもしれない。
それでも。
その言葉は、確かに喜一を奮い立たせた。
「き、喜一……」
宗次郎が声を絞り出す。
「よせ……」
喜一は振り返った。
宗次郎を見る。
そして。
崩れたような笑顔を浮かべた。
泣きそうな顔。
それでも笑おうとしている顔。
大丈夫だと言いたいのに。
何も大丈夫ではないことが、自分でも分かっている顔。
宗次郎の目が見開かれる。
悟ってしまった。
喜一がもう止まらないことを。
喜一は前を向いた。
倒れた朱音。
血を流す深亥。
傷だらけの朝座。
剣を構えるレデ。
そして、瓦礫と白き闘気の中に立つサラザイカ・クーラー。
喉が裂けるほどの声で、喜一は叫んだ。
「お前ら……いい加減にしろォォォォッ!!」
玉座の間へ怒号が響いた。
サラザイカが振り返る。
レデもまた、煙草を咥えたまま視線を向ける。
そこにいるのは、毒に侵された一人の男だった。
まともに立つことすら出来ない。
剣士でもない。
武士でもない。
ただの研究者。
星を見上げていただけの男。
だが。
その瞳だけは燃えていた。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
そして、もう誰も失いたくないという祈り。
それら全てが混ざり合い、喜一の内側で白く燃え上がっていた。
ふわり、と。
喜一の身体から白い靄が噴き出す。
煙のように。
星雲のように。
かすかで、頼りなく、けれど確かな存在感を持って。
白い光が、喜一の周囲へ滲み始めた。
喜一自身にも分からない。
何が起きているのか。
ただ、胸の奥だけが熱い。
このまま黙っていれば、誰かが死ぬ。
このまま倒れていれば、また誰かを失う。
それだけは。
それだけは、嫌だった。
「もう……誰もやらせはしない」
毒で軋む身体を引きずりながら、喜一は前へ出た。
一歩。
足跡の代わりに、床へ汗が落ちる。
また一歩。
呼吸が喉を焼く。
それでも、前へ。
サラザイカは興味深そうに笑った。
「ほォ」
獣の瞳が細まる。
「能力が一部解放されたみたいだなァ」
白き闘気が揺れる。
「だが、関係ない」
巨体が動く。
床が軋む。
その時。
レデが煙草を咥えたまま前へ出る。
白い煙がゆっくりと吐き出された。
細い目が喜一を見つめている。
その視線には先程までの余裕だけではない。
僅かな警戒が混じっていた。
毒に侵され。
まともに立つことすら出来ない男。
だが。
今何か変化が起き始めている事に勘づく。
レデは長年の経験から理解していた。
理屈で説明出来ない存在ほど危険だということを。
そして。
レデは後方の騎士達へ視線を向けた。
「おい」
数名の騎士達が即座に姿勢を正す。
「第四地区を封鎖しろ」
一瞬の沈黙。
騎士達の顔色が変わる。
「城下だけではない」
レデは煙草の灰を落とした。
「幸風全域だ」
その声には一切の迷いが無かった。
「門を閉じろ」
「街道を押さえろ」
「鳴上城も制圧せよ」
そして。
ゆっくりと喜一を見る。
「日陰喜一を絶対に外へ出すな」
騎士達が息を呑む。
それがどれほど異例の命令なのか理解していた。
第四地区。
幸風。
異国の地最大の商業都市。
人も物流も絶えず動き続ける巨大都市。
それを封鎖する。
都市機能そのものを止めるに等しい。
だが。
誰も異議は唱えない。
「はっ!!」
一斉に返答が響いた。
次の瞬間。
数名の騎士達が駆け出す。
玉座の間を飛び出し。
廊下を走り。
城下へ向かう。
足音が遠ざかっていく。
まるで巨大な包囲網が今この瞬間に広がり始めたようだった。
喜一の胸が重くなる。
逃げ道を潰される。
それだけではない。
第四地区全体を巻き込むほど、自分は危険視されている。
その事実が改めて突き刺さった。
だが。
レデの指示を聞いたサラザイカは豪快に笑った。
「わっはっはっはっ!!」
巨体が震える。
「流石は副長だァ!!」
白き闘気が揺らめく。
「ならばわしはここで喜一を捕えるだけだなァ!!」
レデは再び鋭い視線で喜一を見る。
「油断しないでくださいね」
だが、サラザイカは笑った。
「わっはっはっはっ!!」
豪快に。
楽しげに。
そして、二人の距離が縮まる。
サラザイカ・クーラー。
重界騎士団長。
日陰喜一。
天体観測の研究者。
本来なら、勝負にすらならない。
クーラーの両腕が広がる。
捕まえるだけ。
握るだけ。
それだけで終わる。
だが。
喜一は荒桜を抜き、全力で振った。
――ガキンッ!!
火花が散る。
腕が痺れる。
それでももう一度振る。
――ガキンッ!!
また火花。
斬れてはいない。
通ってもいない。
だが。
サラザイカの表情が変わった。
喜一の刃は、黒い結晶の表面ではなく、結晶と結晶の僅かな継ぎ目へ入り込んでいた。
ほんの僅か。
紙一枚ほどの隙間。
そこへ、まるで導かれるように荒桜の刃が走る。
サラザイカの動きが、僅かに鈍った。
「……何?」
サラザイカが眉を動かす。
なぜ分かった。
なぜそこを狙える。
喜一にも分からない。
ただ、見えていた。
まるで夜空の星を結び、星座を見つけるように。
無数の黒い結晶の中に、ほんの僅かな歪みが浮かんで見える。
弱点というより。
そこだけが、偶然、刃を招いているようだった。
喜一は後退する。
足元がふらつく。
だが、サラザイカは一歩前に出る。
その時だった。
足元。
朱音の血溜まり。
紅く濡れた床に、巨大な足が乗る。
ずるり。
巨体が僅かに滑った。
「おおっと」
本当に僅かな乱れ。
常人なら見逃す。
極小さな変化。
その変化を見逃さなかった喜一は動いていた。
「うおおおおおッ!!」
身体ごとぶつかる。
全力だった。
技でも何でもない。
ただの体当たり。
毒で震える身体。
力の入らない足。
それでも、全身を投げ出すようにしてぶつかった。
「な、なんだ!?」
サラザイカがよろめき、そして倒れる。
その衝撃が、既に半壊していた天井へ伝わった。
ミシッ。
嫌な音がした。
喜一は見上げる。
次の瞬間。
――ズガァァァァァァンッ!!
天井が崩落した。
巨大な梁。
石材。
木材。
砕けた装飾。
全てがサラザイカへ降り注ぐ。
轟音。
土煙。
視界が真っ白になる。
玉座の間が震えた。
誰もが言葉を失う。
レデが目を見開いた。
「……なんだ?」
信じられなかった。
偶然。
偶然。
偶然。
刃が隙間へ入ったことも。
朱音の血で足を滑らせたことも。
崩れかけていた天井が、その倒れた瞬間に落ちたことも。
全て偶然。
だが、その全てが積み重なって、重界騎士団長を瓦礫の下へ埋めた。
不気味だった。
あまりにも出来すぎていた。
まるで世界そのものが、ほんの少しだけ喜一の味方をしたように見えた。
レデの頬に汗が伝う。
喜一は膝をついた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が続かない。
意識が遠い。
全身が痛い。
だが。
まだ終わっていない。
レデが剣を向ける。
「これ以上、好きにさせませんよ」
煙草を捨てる。
靴底で踏み潰す。
そして、床を蹴った。
速い。
喜一へ迫る。
だが。
その隙を、戦場の女は逃さなかった。
巨大な斧が振り上げられている。
レデは気付いていた。
朝座が動いたことも。
その斧が自分を狙っていることも。
見えていた。
確かに見えていたのだ。
しかし。
反応が僅かに遅れる。
「……あぁ」
その瞬間。
レデはようやく理解した。
自分の判断が間違っていた事を。
日陰喜一。
あの男だった。
武人でもない。
適合者としても未熟。
まともに戦えば一瞬で制圧できるはずの男。
だが。
その男が引き起こした。
騎士団長を瓦礫の下へ埋め。
戦場の流れを変え。
朝座に今、反撃の機会を与えた。
偶然。
ただの偶然。
そう切り捨てるにはあまりにも出来すぎていた。
理解できないものは恐ろしい。
知らず知らずのうちに。
レデの思考は喜一へ向いていた。
だから見落とした。
目の前の敵を。
朝座という戦士を。
それは副長として。
剣士として。
致命的な失態だった。
口元が歪む。
自嘲だった。
呆れだった。
そして何より。
自分自身への怒りだった。
「……はぁ」
掠れた声が漏れる。
「生き急いだのは、私の方でしたね」
次の瞬間。
朝座の咆哮が玉座の間を震わせた。
「深亥の仇ィィィィッ!!」
――ドゴォォォォォンッ!!
巨大な斧が振り下ろされる。
その一撃は。
焦りという僅かな綻びを見逃さなかった。
――ドゴォォォォンッ!!
斧が叩き込まれる。
レデの剣が受けに回る。
だが、間に合わない。
衝撃が身体を貫く。
レデが吹き飛び、柱へ激突した。
――ズガンッ!!
血を吐く。
だが、意識はある。
膝こそ落ちたが、剣は手放していない。
さすがは副長だった。
朝座は急いで喜一へ歩み寄る。
「大丈夫か?」
苦悶に歪む顔。
額には大量の脂汗。
それでも笑っていた。
「いや……大したものだよ」
喜一の肩を軽く叩く。
「ありがとう」
その言葉が、喜一の胸に刺さる。
礼を言われる資格など無いと思った。
自分がもっと早く動けていれば。
もっと強ければ。
朱音も、深亥も、ここまで傷付かなかったかもしれない。
だが、朝座はそんなことを言わなかった。
ただ、ありがとうと言った。
それが余計に苦しかった。
「さあ、今のうちだ」
朝座は振り返る。
倒れた朱音。
倒れた深亥。
「手当てしなきゃならねぇ」
そして喜一を見る。
「喜一。宗次郎を頼めるか?」
「あ……あぁ」
互いに頷く。
朝座は朱音と深亥を抱える。
喜一は宗次郎へ肩を貸す。
崩壊した玉座の間を後にしようとした。
その時だった。
――パラ。
瓦礫が落ちる。
――パラパラ。
空気が震える。
白い光が、瓦礫の隙間から漏れ出す。
そして。
低い声が響いた。
「おい」
全員が止まる。
「まだ終わってないぞ?」
瓦礫が浮いた。
持ち上がった。
崩落した天井の破片が、まるで軽い石ころのように押し退けられていく。
その中から。
サラザイカ・クーラーが立ち上がった。
白き闘気を噴き上げながら。
黒い結晶の身体に埃をまとい。
それでも笑いながら。
傷一つ無かった訳ではない。
だが、倒れるには程遠い。
怪物は、まだそこにいた。
喜一は叫ぶ。
「朝座さん!!」
「先に行ってください!!」
喜一が振り返り朱音と深亥を見る。
「二人を助けてください!!」
そして宗次郎を見る。
「宗次郎! 這ってでも逃げろ!!」
朝座は呆然とした。
だが、喜一の顔を見る。
その覚悟を見る。
それが虚勢だと分かった。
怖いはずだ。
逃げたいはずだ。
それでも立とうとしているのだと分かった。
朝座は奥歯を噛み締める。
「……死ぬなよ」
それだけ言って。
朱音と深亥を抱えたまま走り出した。
宗次郎だけが残った。
「馬鹿野郎」
低く呟く。
刀を抜く。
毒で震える腕。
だが、その切っ先は真っ直ぐだった。
「俺はここまで来たんだ」
宗次郎は立ち上がる。
痛みも
毒も。
恐怖も。
全てを飲み込んで。
「最後まで一緒に戦う」
その言葉に。
喜一は笑った。
自然と。
本当に自然と。
零れるような笑みだった。
「……そうか」
二人が並ぶ。
一人は研究者。
一人は武士。
生きてきた場所も。
戦ってきた理由も。
何もかも違う。
それでも今。
二人の背中は並んでいた。
サラザイカはその光景を見て。
心の底から嬉しそうに笑った。
「わっはっはっはっはっ!!」
白き闘気が吹き荒れる。
「その勇気!!」
巨体が構える。
「実に素晴らしいぞ!!」
獣のような瞳。
怪物の笑み。
だが、その声には僅かな敬意があった。
「だが――ここまでだ」
玉座の間に残された四人。
騎士団長。
研究者。
武士。
崩れた玉座。
舞う埃。
横に倒れ込んでいるレデ。
瓦礫の隙間から差し込む夕陽の光。
血と煙と白い闘気が混ざり合う中で。
誰も退かなかった。
喜一は荒桜を握る。
宗次郎は刀を構える。
サラザイカ・クーラーは笑う。
そして。
最後の激突が、始まろうとしていた。




