第二十九話 倒れゆく英傑
白き闘気が、玉座の間を満たしていた。
重い。
空気が沈む。
呼吸をするだけで肺が圧迫されるような、異様な威圧。
サラザイカ・クーラーは笑っていた。
黒い結晶の肉体を白き闘気で覆いながら、ただ笑っていた。
それは余裕ではない。
歓喜だった。
強者とぶつかれることへの、本能的な歓喜。
対する菱本朱音は、紅の槍を構えたまま動かない。
額から汗が一筋流れる。
それでも、その瞳は揺れていなかった。
紅ノ王。
異国の地最大の産業都市・幸風を背負う女。
幾多の星喰人を屠り、その返り血で紅く染まった王。
その女が、今。
重界騎士団長の一角と対峙していた。
「――行くぞォ」
サラザイカが低く笑った。
次の瞬間。
消えた。
否。
そう錯覚するほどの速度だった。
――ドォンッ!!
床が爆ぜる。
白い闘気が尾を引く。
サラザイカの巨体が、弾丸のように朱音へ突進した。
人の速度ではない。
獣でもない。
巨大な鉱石が、意志を持って撃ち出されたような突進。
朱音は即座に槍を横へ構える。
紅い闘気を槍へ纏わせ、全身で受ける構えを取った。
だが。
サラザイカは止まらない。
避ける隙を与えるつもりなどない。
防御ごと粉砕する。
それほどの猛突進だった。
「わっはっはァ!!」
巨体が衝突する。
――ゴォォォォォンッ!!
轟音。
玉座の間が揺れた。
朱音の槍が軋む。
腕が弾かれる。
紅い闘気が一瞬歪む。
それでも朱音は耐えようとした。
足を踏ん張る。
床石が砕ける。
だが、止まらない。
サラザイカの突進は、朱音の防御ごと押し潰しにかかっていた。
「ぐ……ッ!」
朱音の身体が浮く。
そして。
壁へ叩き付けられた。
――ズガァァァンッ!!
石壁が陥没する。
粉塵が舞い上がる。
柱が軋み、天井から木屑が落ちる。
「朱音様!!」
「朱音嬢!!」
深亥と朝座の叫びが重なった。
喜一の胸が凍る。
見えなかった。
あまりにも速く。
あまりにも重かった。
紅ノ王が。
防御した上で吹き飛ばされた。
粉塵の奥で、何かが崩れる音がした。
静寂。
誰もが息を呑んだ。
だが。
その中で。
小さな笑い声が聞こえた。
「……ふ、ふふ」
粉塵が晴れていく。
壁にめり込んだ朱音が、ゆっくりと顔を上げていた。
額から血が流れている。
唇は裂け、口元には赤い筋が垂れていた。
着物も破れ、肩口は深く汚れている。
それでも。
朱音は笑っていた。
不敵に。
美しく。
まるで、自分が今ようやく本当の戦場へ立ったとでも言うように。
壁から身体を引き抜く。
石片が落ちる。
朱音は首をゆっくりと回し、肩を解した。
「余のガードごと吹き飛ばすとは……」
血を拭う。
その瞳に宿るのは恐怖ではない。
高揚だった。
「笑いが止まらぬ」
喜一は息を呑む。
倒れない。
折れない。
あれほどの一撃を受けても、なお朱音は立っている。
紅ノ王。
その名は飾りではなかった。
サラザイカもまた、朱音を見て笑みを深めた。
「わっはっはっはァ!!」
低い声。
「紅ノ王!!お主は最高だァ!!」
その瞬間。
サラザイカが再び動いた。
床が砕ける。
白い闘気が裂ける。
またしても、朱音の眼前へ巨大な塊が迫る。
だが。
今度は違った。
朱音の笑みが消える。
瞳が鋭く細まる。
「何度も同じ手は喰らわぬ」
サラザイカの突進。
その進路。
重心。
踏み込み。
全てを読む。
朱音の身体が、紙のように揺れた。
闘牛士が猛牛をいなすように。
風に流される一枚の布のように。
ほんの僅かに身を捻る。
巨体が朱音の横を通り抜けた。
空気が破裂する。
だが、触れていない。
朱音は躱していた。
そして、その直後。
朱音の槍は既に別の構えを取っていた。
下段。
腰を落とし。
穂先を真上へ向ける。
全身の力を、地から空へ押し上げるような構え。
朱音が小さく呟く。
「”天堕落”」
瞬間。
紅の槍が天を穿つ。
――バギィィィンッ!!
顎。
サラザイカの巨体の顎を、朱音の槍が真下から撃ち抜いた。
衝撃が天井へ抜ける。
白い闘気が一瞬乱れる。
あの重い巨体が。
宙に浮いた。
喜一は信じられないものを見るように目を見開いた。
山が浮いた。
そう錯覚するほどの光景だった。
サラザイカの身体が大きく仰け反り、床へ叩き付けられる。
――ドゴォォォンッ!!
床が割れる。
粉塵が舞い上がる。
木屑が降る。
玉座の間に、再び静寂が訪れた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
勝ったのではないか。
そんな希望が生まれた。
だが。
その希望を砕くように。
粉塵の奥で、巨大な影が動いた。
サラザイカが、のっそりと起き上がる。
顎を撫でる。
首を鳴らす。
そして。
笑った。
「わっはっはっはっは!!」
大音声。
城そのものを揺らすような笑い。
「今のは効いたぞォ!!」
喜一の背筋が冷たくなる。
効いた。
確かに効いた。
だが、それだけだった。
倒れていない。
止まっていない。
サラザイカ・クーラーは、まだ笑っている。
朱音は槍を構え直した。
血が顎を伝い、床へ落ちる。
それでも鼻で笑う。
「フッ。先ほども言うたであろう」
紅の槍が静かに揺れる。
「同じ手は二度は喰らわぬ」
サラザイカはその言葉を聞き、獰猛に口角を吊り上げた。
「二度はねぇ」
一拍。
白き闘気が、さらに濃くなる。
「これが初だ」
次の瞬間。
床が爆発した。
――ドォォォォンッ!!
これまでとは違う。
踏み込みの質が違う。
速度も。
角度も。
殺意も。
先程までの突進とはまるで別物だった。
巨大な塊が、真っ直ぐ朱音へ迫る。
朱音は既に構えていた。
足を滑らせる準備。
重心を逃がす姿勢。
今度も躱す。
いなす。
そう見えた。
だが。
サラザイカの口角が上がった。
「甘え..」
低く、吐き捨てるような声。
その瞬間。
朱音が避ける先を読んだ上で逃場そのものを包み込むようにサラザイカは両腕を大きく広げた。
獣が獲物を抱き潰すように。
いや。
山そのものが迫ってくるかのように。
白き闘気が膨れ上がる。
床が砕ける。
空気が悲鳴を上げる。
玉座の間そのものが軋んだ。
「――ッ」
朱音の反応が一瞬遅れる。
ほんの僅かな遅れ。
だが。
それは重界騎士団長を相手にするには致命的だった。
サラザイカの口角が吊り上がる。
「捕らえたぞォ!!」
獣の咆哮。
巨大な腕が閉じる。
その瞬間。
朱音の瞳が鋭く細められた。
紅い闘気が膨れ上がる。
燃えるように。
血潮のように。
その身から溢れ出す。
誇りが。
魂が。
朽ちることなく
今なお燃えていた。
「……舐めるなよ」
低い声。
だが。
確かな怒気を孕んでいた。
朱音は槍を握る。
血が流れている。
肋は軋み。
全身が悲鳴を上げている。
それでも。
その口元には笑みがあった。
戦場を生き抜いてきた者の笑み。
「余を誰だと思うておる」
紅い覇気が爆発する。
槍を回す。
空気が裂ける。
「余は――」
槍先が閃く。
「幸風を治める紅ノ王ぞ!!」
轟音。
紅い闘気が玉座の間へ吹き荒れる。
「久遠新絶流....”千空火”」
紅い槍が全方位へ弾けた。
前後左右。
上下。
空間全てへ鋭い突きが無数に放たれる。
無数の紅い軌跡が花のように咲く。
包み込もうとしてくるサラザイカの巨大な両腕。
その全てへ襲い掛かる。
全方位迎撃。
死角なしの大技。
しかし、それはもう時に既に遅かった。
サラザイカの瞳が獰猛に歪む。
「良い攻撃だァ!!..だがァ...遅い!!」
白き闘気が爆発する。
そして。
両腕が閉じた。
――ドゴォォォォォンッ!!
巨大な音が玉座の間に響く。
紅い闘気が砕け散る。
槍の軌跡が途切れる。
その細い身体が、巨大な結晶の腕に叩き込まれいた。
「朱音様ァッ!!」
深亥の叫びが響く。
「朱音嬢!!」
朝座も吠えた。
しかし、間に合わなかった。
サラザイカの腕が開かれる。
朱音の身体が、力を失って落ちた。
床へ叩き付けられる。
跳ねる。
転がる。
そして、止まった。
沈黙。
誰も息をしなかった。
朱音は倒れていた。
血が床へ広がる。
紅い着物が、さらに深い赤へ染まっていく。
その手から離れた槍が、ゆっくりと床を転がった。
――カラン。
紅の槍が床を転がる。
乾いた音が玉座の間へ響いた。
あまりにも小さな音。
だが。
その場にいた誰の耳にも、雷鳴のように響いた。
紅ノ王。
菱本朱音。
第四地区を支え続けた王。
数多の星喰人を屠り。
第四地区を守り続けた女。
その朱音が。
今。
血を流しながら床へ倒れていた。
動かない。
槍も手元には無い。
紅く染まった着物だけが、痛々しく広がっている。
静寂。
誰も動けなかった。
誰も言葉を発せなかった。
その時だった。
「……朱音様」
小さな声。
震えていた。
深亥だった。
いつも通りの無表情。
いつも通りの静かな顔。
だが。
その瞳だけが違った。
揺れていた。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
絶望。
あらゆる感情が渦巻いていた。
朱音は主だった。
恩人だった。
生きる意味だった。
その人が。
今。
目の前で倒れている。
そして、深亥の中で何かが切れる音が鳴る。
「……殺す」
ぽつり。
呟く。
誰にも聞こえないほど小さな声。
だがその変化に朝座だけは気付いた。
「深亥――!!」
叫ぶ。
だが遅い。
次の瞬間。
深亥の姿が掻き消えた。
――ドンッ!!
床石が砕ける。
風が唸る。
小柄な身体が一直線に飛び出した。
狙うは一つ。
サラザイカ・クーラー。
朱音を倒した怪物。
その首だけを見ていた。
薙刀が閃く。
音を置き去りにする速度。
殺意。
技術。
覚悟。
その全てを込めた渾身の一撃。
首筋へ向かって振り下ろされる。
だが。
その刃は届かなかった。
「熱くなったな」
低い声。
煙草の煙が揺れる。
白いコート。
細身の身体。
騎士副長。
レデ。
いつの間にか。
深亥の進路へ立っていた。
深亥の瞳が見開かれる。
気付く。
だが遅い。
怒りに呑まれていた。
サラザイカしか見えていなかった。
だから。
レデの存在に気付けなかった。
レデは静かだった。
まるで仕事を片付けるように。
当然のように。
剣を振るう。
無駄が無い。
迷いも無い。
ただ最短。
ただ最速。
戦場で生き残るためだけに磨かれた剣。
――ザァァァァンッ!!
鋭い横薙ぎ。
空気が裂ける。
深亥の身体が止まる。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
時間が止まったように見えた。
そして。
鮮血が舞った。
「っ――」
声にならない。
深亥の身体が宙へ浮く。
薙刀が手から離れる。
回転する。
血飛沫が散る。
そのまま。
小柄な身体が壁へ叩き付けられた。
――ドゴォンッ!!
石壁が砕ける。
木屑が舞う。
深亥は崩れ落ちた。
壁を背に。
力なく。
ゆっくりと。
血だけが床へ流れていく。
「深亥ィィィィッ!!」
朝座の絶叫が響く。
今まで聞いたこともない声だった。
怒り。
悲しみ。
焦り。
全てが混ざった叫び。
だが。
深亥は動かない。
薙刀も拾わない。
ただ。
静かに倒れていた。
レデは剣を払う。
血を飛ばす。
そして煙草を咥え直した。
「だから嫌なんだよ」
面倒臭そうに頭を掻く。
「感情で突っ込む奴は」
吐き出された煙が揺れる。
その目には憐れみも無い。
怒りも無い。
ただ。
現実だけがあった。
戦場の現実。
生き残る者と。
死ぬ者。
その差だけを知っている男の目。
玉座の間が静まり返る。
喜一の胸が締め付けられる。
息が苦しい。
毒だけではない。
心が痛かった。
自分のせいだ。
自分を逃がそうとしたから。
自分を守ろうとしたから。
皆が傷付いていく。
皆が倒れていく。
拳を握る。
爪が食い込む。
だが。
何も出来ない。
宗次郎も同じだった。
歯を食いしばる。
立ち上がろうとする。
だが毒が身体を蝕む。
悔しさだけが積もっていく。
朝座は斧を握り締めた。
ギリギリと音が鳴るほど強く。
目の前には。
サラザイカ・クーラー。
そしてレデ。
第四地区騎士団の主力戦力二人。
朱音は倒れた。
深亥も倒れた。
残されたのは朝座だけ。
絶望的だった。
誰の目にも明らかだった。
戦況は完全に傾いた。
粉塵だけが漂っていた。
木屑だけが静かに落ちていた。
その中央で。
サラザイカ・クーラーは立っている。
白き闘気を纏い。
黒い結晶の身体を鳴らしながら。
まるで、勝利を誇るでもなく。
まるで、当然の結果だと言わんばかりに。
ゆっくりと息を吐いた。
「……見事だったぞ、紅ノ王」
その声に嘲りは無かった。
だが。
だからこそ残酷だった。
喜一は理解してしまう。
このままでは終わる。
全員が。
ここで終わる。
そして。
玉座の間の外。
遠くの廊下から。
何かが歩く音が響いていた――。




