第二十八話 レデ騎士副長
時を同じくして。
嗚上城の内部を、一人の男が駆けていた。
杉田冬馬。
茜薙武士団を率いる男は、普段の軽薄な笑みを消し、血相を変えて廊下を走り抜けていた。
「はあ……はあ……はあ……ッ」
息が荒い。
胸が焼ける。
だが、足は止めない。
「喜一……宗次郎……」
奥歯を噛み締める。
「済まなかった……」
呟いた声には、後悔が滲んでいた。
騙した。
毒を盛った。
笑顔で飯を食わせた。
あの時の喜一の安堵した顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
自分はそれを知っていて、笑っていた。
朱音様の策だった。
必要な芝居だった。
それでも。
胸が痛まない理由にはならない。
「……くそ」
杉田はさらに速度を上げた。
廊下の角を曲がる。
奥の一室。
解毒剤が保管されている部屋。
「確か、ここに……!」
扉の前へ辿り着く。
迷わず手を掛け、勢いよく開いた。
だが。
その瞬間、杉田の足が止まった。
室内。
薄暗い薬品棚の前。
そこに、誰かが立っていた。
杉田の目が見開かれる。
「あ……」
喉が詰まる。
信じられないものを見るように、その人物を見つめた。
「あなたは……」
その声は、驚愕に震えていた。
場面は戻る。
玉座の間。
砕けた壁。
割れた床。
倒れた燭台。
戦場と化したその場所で、喜一は毒の回る身体に鞭を打ち、ゆっくりと床へ膝をついた。
視界が霞む。
吐き気が込み上げる。
全身が痺れ、指先の感覚も薄い。
だが、意識だけは必死に繋ぎ止めた。
状況を見ろ。
考えろ。
ここで倒れたら終わる。
喜一は荒い息を吐きながら、玉座の間を見渡した。
正面。
紅の槍を構える菱本朱音。
その対面に、白き闘気を纏うサラザイカ・クーラー。
紅ノ王と騎士団長。
二人の怪物が、互いの殺気をぶつけ合っている。
その後方では、数名の騎士達が剣を抜き。
深亥と朝座が、それを食い止めるように立っていた。
横を見る。
宗次郎もまた、同じように床へ膝をついていた。
額には汗。
顔色は悪い。
だが、その瞳だけはまだ死んでいない。
宗次郎は喜一を見る。
言葉は無い。
だが、その目が語っていた。
どうにかして、ここを切り抜ける。
必ず。
喜一は小さく頷こうとした。
だが、身体は思うように動かない。
その時だった。
サラザイカの背後に控えていた騎士の一人が、一歩前へ出た。
細身の男だった。
白いコートを羽織り、気怠そうに肩を落としている。
中年。
整ってはいるが、どこか疲れ切ったような顔。
その口には煙草が咥えられていた。
「クーラー騎士団長」
男は面倒そうに言った。
「そろそろ動いてもいいですかな?」
サラザイカは振り返りもせず笑った。
「わっはっはっ!!」
豪快な笑い声。
「レデ騎士副長! 好きにしてよい!」
「はいはい」
レデと呼ばれた男は、気怠げに返事をした。
火を点ける。
煙草の先端が赤く灯った。
紫煙がゆっくりと空へ昇る。
こんな状況で。
この戦場の只中で。
レデはまるで退屈な事務仕事へ向かうように、髪をくしゃくしゃと掻いた。
「まったく……面倒なことになりましたね」
そして。
鞘に手を当てようとした。
その瞬間、深亥が動いた。
判断は速かった。
相手が構えを整える前に潰す。
深亥の小柄な身体が、影を縫うように床を滑る。
一瞬。
本当に一瞬で、レデとの間合いを詰めた。
薙刀が閃く。
狙いは頭部。
可憐な見た目からは想像も出来ない、冷徹な殺しの一撃。
刃が振り下ろされる。
だが。
レデは僅かに首を傾けた。
紙一重。
ほんの髪一筋ほどの差で、深亥の薙刀が空を裂く。
深亥の瞳が僅かに揺れる。
避けられた。
それも、見切られた。
その瞬間にはもう、レデの剣は抜かれていた。
速い。
構えも、呼吸も、殺気も無かった。
ただ当然のように剣がそこにあり。
横薙ぎの刃が、深亥の胴へ迫っていた。
「ッ」
深亥は咄嗟に後ろへ跳ぶ。
刃が着物の袖を裂く。
だが、致命傷は避けた。
そう思った瞬間。
レデはすでに前へ出ていた。
読んでいた。
深亥が引く場所を。
距離を。
呼吸を。
全て。
「遅いです」
眠たげな声。
だが、その剣は冷酷だった。
完全に不意を突かれた深亥の腕へ、無情な刃が振り下ろされる。
――斬られる。
誰もがそう思った。
だが。
――ギィンッ!!
巨大な斧が、レデの剣を受け止めた。
朝座だった。
ぎりぎりの間合い。
ほんの僅かでも遅れていれば、深亥の腕は落ちていた。
深亥の口から、小さく声が漏れる。
「あ……朝座……」
朝座は血の滲む口元で笑った。
「やらせるかよ」
その声には、いつもの豪胆さがあった。
だが、身体は万全ではない。
サラザイカの体当たりを受けた傷が残っている。
呼吸も荒い。
それでも、朝座は踏み止まった。
斧を押し込み、深亥を背に庇う。
レデは薄く目を細めた。
「邪魔ですね」
気怠げな声。
だが、その視線にははっきりと殺気が宿っていた。
朝座が笑う。
「そりゃどうも」
剣と斧が噛み合う。
火花が散る。
互いに一歩も引かない。
じりじりと、鋼が軋む音だけが響いていた。
深亥は薙刀を握り直す。
朝座の背中を見つめる。
その小さな瞳に、ほんの一瞬だけ悔しさが滲んだ。
守られた。
それが悔しい。
だが同時に。
生きている。
まだ戦える。
深亥は息を整えた。
朝座は前を見据えたまま言う。
「深亥」
「……はい」
「合わせろ」
短い言葉。
それだけで十分だった。
深亥の表情が消える。
可憐さも、動揺も、悔しさも。
全て刃の奥へ沈める。
朝座は斧を押し返しながら、低く笑った。
「騎士副長だか何だか知らねぇが」
その目が鋭くなる。
「うちの主の前で、好き勝手やらせるほど安くねぇんだよ」
レデは煙草の煙を吐く。
「ははは...怖いですね」
その声は変わらず気怠い。
だが。
剣に込められた力は、確実に増していた。
玉座の間の片側では。
紅ノ王とサラザイカ・クーラーが睨み合い。
もう片側では。
深亥と朝座が、レデ騎士副長と対峙している。
戦場は分かれた。
だが、どちらも退けない。
誰か一人が崩れれば、その瞬間に全てが終わる。
その時だった。
玉座の間の空気が、さらに重く沈んだ。
サラザイカ・クーラーが、笑うのをやめていた。
先程までの豪快な笑い声が消える。
代わりに、白い闘気がゆっくりと膨れ上がっていく。
黒い結晶の肉体の隙間から、白い光が漏れる。
それは炎ではない。
雷でもない。
もっと硬く、もっと重いもの。
圧力そのものが形を持ったような覇気だった。
床が軋み。
壁に走った亀裂が、さらに広がる。
空気が押し潰される。
深亥が僅かに身を低くした。
朝座も斧を構え直す。
レデ騎士副長でさえ、煙草を咥えたまま目だけを細めた。
朱音の表情も変わった。
紅の槍を握る手に、僅かに力が入る。
「……来るか」
朱音が低く呟いた。
サラザイカはゆっくりと首を回した。
ゴキリ。
ゴキリ。
硬質な音が鳴る。
まるで人の骨ではなく、鉱石同士が擦れ合っているような音だった。
「いやァ」
サラザイカは低く笑った。
「楽しいなァ、紅ノ王」
声が変わっていた。
先程までの陽気さは残っている。
だが、その奥に重い殺意が混じっていた。
「久方ぶりに、少しだけ血が騒いだぞォ」
白き闘気がさらに濃くなる。
サラザイカの身体を覆う黒い結晶が、鈍く光を反射した。
朱音の八咫烏で走った胸の亀裂。
それすらも、まるで勲章のように輝いている。
「ならば」
サラザイカは両腕を広げた。
玉座の間が震える。
「こちらも少しばかり、段を上げるとしようかァ!!」
瞬間。
白き闘気が爆ぜた。
――ドォンッ!!
衝撃波が玉座の間全体へ広がる。
燭台が吹き飛ぶ。
砕けた床石が跳ねる。
喜一の身体も、その圧だけで後ろへ押されそうになった。
「ぐ……ッ」
呼吸が止まる。
肺が潰されるようだった。
これが、ただ立っているだけの覇気なのか。
喜一は信じられなかった。
目の前にいるのは、人間ではない。
そう頭では理解していた。
朱音は槍を構え直した。
紅い闘気が揺れる。
だが、その赤は先程よりも鋭い。
燃え上がる炎ではなく。
研ぎ澄まされた刃のような赤。
「深亥、朝座」
朱音は前を向いたまま言った。
「無理に近づくな」
深亥が短く頷く。
朝座が血を吐き捨てながら笑う。
「分かってるよ。近づいたら骨も残らなそうだ」
サラザイカは歯を剥き出しにして笑った。
「正解だァ」
次の瞬間。
その巨体が、僅かに沈んだ。
踏み込みの予備動作。
たったそれだけで、床が砕ける。
朱音の瞳が鋭くなる。
喜一の心臓が跳ねた。
来る。
誰かがそう叫ぶより早く。
サラザイカの姿が消えた。
いや。
消えたように見えた。
白い闘気だけが尾を引き、玉座の間を裂く。
その瞬間。
喜一は理解した。
ここから先は、さっきまでの戦いではない。
このバケモンが。
本当に怪物として、牙を剥いたのだ。




