第二十七話 開戦
側近
深亥
朱音を守る最側近の1人。
可愛らしい見た目の女性。
薙刀を使用している。
朝座
朱音を守る最側近の1人。
筋骨隆々の女性。
斧を使用している。
サラザイカ・クーラーがゆっくりと歩み寄り、
笑いながら喜一へ手を伸ばす。
巨大な掌。
それは人を捕らえるための手ではなかった。
岩を掴み。
鉄を握り潰し。
命というものを、ただの物体として砕くために
生まれたような手だった。
「さァて」
サラザイカは獣のように口角を吊り上げる。
「大人しく来てもらおうかァ、日陰喜一」
喜一の身体は動かない。
毒が巡っている。
指先は痺れ、視界は霞み、膝は床へ縫い付けられたようだった。
呼吸が浅い。
胸の奥が焼ける。
頭の中では逃げろと叫んでいるのに、身体は一寸も言うことを聞かない。
それでも。
伸びてくるその手だけは、許せなかった。
掴まれれば終わる。
連れて行かれる。
また何も分からないまま。
また誰かに守られたまま。
自分の意志とは関係なく、流されていく。
そんなのは。
もう、嫌だった。
「……ッ!」
反射だった。
喜一は荒桜を抜き、震える腕でサラザイカの手を弾いた。
――ギィンッ!!
刃と結晶の腕がぶつかる。
重い。
腕の骨が軋んだ。
斬ったのではない。
弾いたのでもない。
ただ、辛うじて軌道を逸らしただけだった。
それでも。
確かにその手は止まった。
一瞬だけ。
玉座の間に、奇妙な間が生まれる。
サラザイカは僅かに目を見開いた。
そして次の瞬間、愉快そうに笑った。
「ほォ」
低く、喉の奥で笑う。
「毒を盛られてなお刃を振るうか」
その声に怒りは無い。
むしろ歓喜があった。
「いいぞ、気に入ったァ」
だが、止まらない。
サラザイカは再び喜一へ迫る。
その巨体が一歩動いただけで、床が軋む。
サラザイカが近づいてくる。
その時だった。
――ヒュンッ!!
空気を裂く音。
サラザイカの左右から、二つの影が走った。
一人は、小柄で可憐な女。
手には長い薙刀。
もう一人は、筋骨隆々の女。
手には巨大な斧。
菱本朱音の両隣に居た二人の側近が居なくなっていることに喜一は遅れて気付く。
そして二人の刃が、同時にサラザイカへ襲いかかっていたのだ。
薙刀が首筋を狙い。
斧が胴を叩き割るように振り下ろされる。
――ガギィンッ!!
重い音。
火花。
だが、斬れない。
サラザイカの身体に浮かぶ黒い結晶が、二人の斬撃を受け止めていた。
それでも。
その一瞬で十分だった。
菱本朱音が立ち上がる。
紅の着物が揺れた。
先程まで静かだった空気が、一変する。
玉座の主。
紅ノ王。
その名に相応しい覇気が、玉座の間へ満ちていく。
「余は――」
朱音の声が響いた。
静かで。
美しく。
そして、揺るがない声だった。
「喜一達を逃がし、不知火王都へ向かわせる!」
その宣言に、空気が震えた。
宗次郎が目を見開く。
喜一もまた、霞む視界の中で朱音を見上げた。
裏切られたと思っていた。
利用されたと思っていた。
だが違っていた。
「深亥! 朝座!」
朱音の声が鋭く飛ぶ。
「後ろの騎士団を撃退せよ!」
「はい」
深亥が短く応じる。
その声は涼やかだった。
可憐な見た目に似合わぬほど、死地に慣れた声。
「任せな、朱音様」
朝座が斧を肩に担ぐ。
その笑みは豪胆だった。
だが、その瞳には確かに主を守る覚悟が宿っていた。
さらに朱音は叫んだ。
「杉田!」
その声に、杉田冬馬が顔を上げる。
「解毒剤を持ってこい!」
「……承知!」
一瞬だけ、杉田の顔にいつもの軽薄な笑みが戻った。
だが、それは戯けた笑みではない。
逃げ道を作る者の顔。
己の役割を理解した男の顔だった。
杉田は即座に駆け出す。
玉座の間の横扉へ向かい、風のように姿を消した。
朱音は紅の槍を手に取る。
美しい槍だった。
だが、美しいだけではない。
柄に刻まれた傷。
刃に宿る鋭さ。
幾多の星喰人を貫き、幾度も血を浴び、それでも折れずに主の手へ戻り続けた槍。
朱音はその槍を構えた。
「余がサラザイカ・クーラー殿を相手にする」
静かな声。
だが、それは命令だった。
王の言葉だった。
瞬間。
朱音の全身から、淀むような闘気が滲み出す。
紅い。
血の色にも似た、重く燃えるような気配。
それは怒りではない。
恐怖でもない。
都市を背負う者の覚悟。
命を差し出すことすら選択肢に含めた者だけが纏える、静かな戦意だった。
サラザイカはそれを見て、さらに大きく笑った。
「わっはっはっはっ!!」
巨体が揺れる。
「我らに反旗を翻すか、紅ノ王!」
その笑みには怒りよりも歓喜があった。
強者との衝突を愉しむ獣の顔。
「良かろう!!」
サラザイカの身体から、白き闘気が滲み出す。
黒い結晶の肉体の上を、白い光が這う。
まるで鉱石の内側に雷が流れているようだった。
「主らを退け、日陰喜一を捕縛していく!!」
その瞬間。
玉座の間は城の一室ではなくなった。
戦場になった。
朝座が喜一と宗次郎の元へ駆け寄る。
「動くなよ」
低く言うと、朝座は二人を軽々と担ぎ上げた。
毒で力の入らない喜一と宗次郎を、まるで荷物のように抱え、玉座の横へ退避させる。
喜一は声を絞り出した。
「な……何が……」
朝座は短く息を吐く。
「悪かったな」
荒っぽい声。
だが、その奥には確かな申し訳なさがあった。
「猿芝居もここまでだ」
宗次郎が歯を食いしばる。
「最初から……こうするつもりだったのか」
「ああ」
朝座は隠さなかった。
「朱音嬢は機を伺っていたのさ。重界騎士団の目を欺くには、味方から騙すしかなかった」
喜一は息を呑む。
裏切りではなかった。
少なくとも、全てがそうではなかった。
朱音も。
杉田も。
最初から敵だった訳ではない。
そう分かった瞬間、胸の奥に別の痛みが生まれた。
騙された怒りではない。
守るために騙さねばならなかった彼らの苦しさを、少しだけ理解してしまったからだ。
「その毒は死ぬやつじゃない。少し動けなくするやつさ。それに馬鹿冬馬がもう少しで戻ってくる」
朝座は斧を握り直す。
「解毒剤を持ってな。安心しろ」
そう言うと、朝座は振り返る。
その先には、重界騎士団の騎士達が剣を抜いていた。
「さあて」
朝座は口角を上げる。
「こっからは仕事だ」
次の瞬間。
朝座は騎士団へ向かって突進した。
だが。
それより速く、巨影が動いた。
「おおっとォ!!」
サラザイカが笑う。
その巨体が、信じられない速度で横へ跳んだ。
床が爆ぜる。
空気が潰れる。
巨岩のような身体が朝座へ突っ込む。
「”メテオパンク”」
低い呟き。
瞬間。
凄まじい衝撃が走った。
――ドゴォォッ!!
朝座の身体が吹き飛ぶ。
重い斧ごと宙を舞い、玉座の間の柱へ激突した。
――ズガァンッ!!
柱が軋む。
木片が散る。
天井から埃が落ちる。
「朝座!!」
朱音の叫びが響いた。
その声には、王としての冷静さを超えた感情が滲んでいた。
最側近。
ただの部下ではない。
きっと長い時間を共に戦い、共に笑い、同じ城を守ってきた者。
喜一にも、それが分かった。
瓦礫の中で、朝座が咳き込む。
口元から血が零れた。
「……朱音様」
朝座は血を拭いながら笑った。
「私は大丈夫だよ」
膝に力を込める。
柱にめり込んだ身体を押し出すように立ち上がる。
「ちょっと油断しただけさ」
そして再び斧を構えた。
だが、その呼吸は明らかに乱れている。
サラザイカの一撃。
それはただの体当たりではなかった。
炭素で出来た星の適合者。
ダイヤモンドのような硬度を持つ肉体が、凄まじい速度で突っ込んでくる。
それはもはや人ではない。
鉱石の隕石だった。
その時。
影が縫うように走る。
深亥だった。
小柄な身体が床を滑るように移動し、音もなくサラザイカの背後を取る。
可愛らしい見た目とは裏腹に、その動きは殺しに特化していた。
息を消し。
気配を消し。
刃だけを残す。
無言の薙刀が、サラザイカの背中へ斬り込まれた。
――ガキンッ!!
さらに一撃。
――ガキンッ!!
三撃。
四撃。
薙刀の刃が、背中、膝裏、首筋、脇腹へ次々と走る。
だが。
響くのは鈍い音だけ。
斬れない。
削れない。
通らない。
深亥の目が僅かに細まる。
その一瞬。
サラザイカはゆっくりと振り返った。
「すばしっこいやつだなァ!!」
笑う。
「わっはっはっはっ!!」
その腕が横薙ぎに振るわれた。
ただ腕を振っただけだった。
だが、空気が破裂した。
壁が砕ける。
床板が捲れ上がる。
深亥は即座に後方へ跳ぶ。
薙刀を構えたまま、軽やかに距離を取った。
砕けた壁の破片が頬を掠める。
白い肌に一筋の血が浮かんだ。
だが、表情は変わらない。
静かに。
ただ騎士団を見据えていた。
その時、菱本朱音が紅色の槍を構えていた。
玉座の間の空気が変わる。
朱音の周囲に、紅い闘気が滲む。
美しさと殺気。
気品と暴力。
その二つが矛盾なく同居していた。
紅ノ王。
数多の星喰人を屠り、返り血で紅に染まった女。
その本質が、今ここに現れていた。
「参る」
短い声。
朱音の足が床を蹴る。
次の瞬間。
槍が消えた。
「”孔雀双”」
紅ノ王の声と共に、朱音の槍が消える。
否。
消えたように見えただけだった。
神速。
人の目で追うことすら許さぬ連撃。
朱音の槍は何十本にも分裂したかのように錯覚し、サラザイカの全身へ降り注ぐ。
胸。
喉。
肩。
脇腹。
膝。
急所という急所へ寸分違わず突き込まれていく。
――ガガガガガガガガガッ!!
玉座の間へ硬質音が連続して響いた。
火花が散る。
空気が震える。
衝撃だけで周囲の床石に細かな亀裂が走る。
サラザイカの巨体が一歩。
さらに一歩。
じりじりと後退した。
喜一は目を見開く。
押している。
あの大男を。
宗次郎の渾身の一撃すら受け止めた騎士団長を。
紅ノ王の槍が押し返している。
「ほォォォォ!!」
サラザイカが歓喜の声を上げた。
獣のような瞳が輝く。
「良い槍だァ!!」
だが、朱音の表情は変わらない。
冷静だった。
孔雀双は終わりではない。
始まりだった。
槍を引く。
腰を落とす。
深く息を吸う。
再び玉座の間の空気が変わる。
紅い闘気が朱音の周囲で渦を巻き始めた。
まるで雷雨の前触れ。
静かだった空間が不自然なほど張り詰めていく。
サラザイカもそれを察した。
笑みを浮かべたまま。
だが、その瞳だけが僅かに細くなる。
本能が告げていた。
危険だと。
次の瞬間。
朱音が踏み込んだ。
――ドンッ!!
床石が砕け飛ぶ。
紅い閃光が走る。
槍が消える。
いや。
速すぎて見えない。
「久遠新絶流..奥義....”八咫烏”」
静かな声だった。
だが。
その一撃は雷そのものだった。
――バギィィィィィィィィィンッ!!
轟音。
玉座の間全体が震える。
空気が爆ぜる。
槍の穂先がサラザイカの胸部へ一点集中で突き刺さっていた。
衝撃波が四方へ広がる。
床が割れる。
壁へ亀裂が走る。
燭台が吹き飛ぶ。
それは連撃ではない。
ただ一撃。
速度。
質量。
貫通力。
その全てを一点へ集約した紅ノ王最大級の刺突。
”八咫烏”
雷が地上へ落ちる瞬間を再現したかのような槍技だった。
「ぬゥッ!?」
初めてだった。
サラザイカの口から驚愕が漏れる。
巨体が大きく仰け反る。
黒い結晶で覆われた胸部。
そこへ一本の白い線が走っていた。
亀裂。
ほんの僅か。
だが確かに。
傷だった。
玉座の間が静まり返る。
深亥が目を見開き。
朝座が笑っている。
「やるじゃねぇか朱音様ァ!!」
宗次郎も息を呑んだ。
喜一も信じられなかった。
傷を付けた。
あの騎士団長に。
サラザイカは胸へ手を当てた。
結晶の表面を撫でる。
そこに残された細い亀裂。
そして。
ゆっくりと笑った。
先程までとは違う。
戦士の笑み。
強敵を前にした猛獣の笑みだった。
「わっはっはっはっは!!」
白き闘気が爆発的に膨れ上がる。
床が軋む。
柱が震える。
天井から埃が舞い落ちた。
「良い!!」
サラザイカの瞳が獰猛に輝く。
「実に良いぞォ!! 紅ノ王!!」
巨体から放たれる圧力がさらに増した。
「このサラザイカ・クーラーに傷を付けたのは何年振りだったかァ!!」
喜一は背筋が凍るのを感じた。
通じた。
確かに通じた。
だが、倒せてはいない。
それどころか。
こいつを本気にしてしまった。
朱音もそれを理解していた。
槍を構え直す。
呼吸を整える。
額には汗が滲んでいる。
それでも瞳は死んでいなかった。
「……バケモンめが」
思わず漏れた本音。
それを聞いたサラザイカはさらに笑う。
「主も十分バケモンだろうがァ!!」
誰もが理解していた。
ここから先が本番だと。
玉座の間は既に半壊していた。
砕けた壁。
割れた床。
倒れた燭台。
崩れかけた柱。
その中央。
紅き闘気を纏う紅ノ王。
白き闘気を纏う第四地区騎士団長。
二人の怪物が真正面から睨み合っていた。
その背後では深亥と朝座が騎士団を牽制し。
毒に侵された宗次郎が再び立ち上がろうとしている。
そして喜一は拳を握る。
悔しさ。
無力感。
焦り。
自分達を逃がすために。
自分達を不知火王都へ送り届けるために。
皆が命を懸けている。
その事実が。
毒よりも深く。
喜一の胸を締め付けていた。




