第二十話 盲目の剣鬼
死臭が漂っていた。
元第六地区。
崩れ果てた城下町。
砕けた石畳の上には、 無数の死体が転がっている。
乾き切った血痕。
腐敗した肉。
蠅の羽音。
風が吹く度、 腐臭だけが静かに揺れた。
その中心で。
三人は向かい合っていた。
誰も動かない。
動けない。
空気そのものが、 異様な緊張感で張り詰めていた。
麻生勝新。
閉ざされた両目。
髪の無い頭部。
骨ばった細い身体。
血と泥に塗れた襤褸の着物。
その姿は、 長い年月を彷徨い続けた亡者そのものだった。
今にも崩れ落ちそうなほど痩せ細っている。
人間なら、 とっくに死んでいてもおかしくない。
だが。
この場で最も“死”に近い存在は、 間違いなくこの男だった。
そこに立っているだけで、 空気が腐る。
呼吸する度、 肺の奥へ冷たいものが入り込んでくる。
まるで、 この世へ居てはいけない何かが、 無理矢理立ち続けているようだった。
その時。
麻生勝新の口が、 ゆっくりと開いた。
「……ココハ……」
掠れた声。
喉の奥で、 何か腐ったものが擦れるような音。
「……我ガ…… 主ノ……領域……」
どろり。
黒ずんだ粘液が、 口元から垂れ落ちる。
血とも違う。
唾液とも違う。
腐った臓物を溶かしたみたいな、 嫌な液体だった。
――ベチャ……
石畳へ落ちる。
その音だけで、 胃の奥が軋む。
麻生はゆっくり刀を持ち上げた。
「……邪魔ダテ……スル…… 者……」
閉じた瞼。
だが。
見えている。
間違いなく。
俺たちの位置も。
呼吸も。
鼓動も。
全部。
全部を捉えていた。
「……如何ナル……モノ…… デモ……」
刀が、 僅かに揺れる。
「……斬ル……」
静寂。
風だけが吹き抜ける。
俺は言葉を失った。
話している。
意思がある。
宗次郎も、 僅かに目を見開いていた。
「……まだ自我が残ってやがるのか」
低い呟き。
宗次郎たちは、 麻生勝新を完全に壊れた存在だと思っていた。
理性も。
言葉も。
とうに失っている怪物だと。
だが違う。
この男は、 未だに守っている。
夜座城を。
第六地区を。
己が“主”の領域を。
壊れながら。
狂いながら。
それでもなお。
執念だけで立っていた。
その瞬間だった。
――消えた。
「ッ!!」
視界から、 麻生勝新の姿が掻き消える。
次の瞬間。
――ギィィィンッ!!
凄まじい金属音。
火花。
宗次郎の刀が、 横薙ぎの一閃を受け止めていた。
衝撃だけで、 石畳が砕け散る。
「チッ……!!」
宗次郎の足が滑る。
重い。
異常なまでに。
痩せた身体から放たれているとは思えない。
まるで巨岩が突っ込んできたみたいな斬撃だった。
しかも速い。
見えない。
本当に、 見えなかった。
麻生の姿が霞む。
次の瞬間には、 宗次郎の背後へ回っている。
――ザンッ!!
「ぐッ!!」
血飛沫。
宗次郎が咄嗟に身体を捻る。
それでも脇腹が裂けた。
止まらない。
麻生勝新の剣には、 一切の“溜め”が無い。
踏み込みも。
呼吸も。
殺気すら無い。
空気の流れそのものが、 突然“死”へ変わる。
そんな斬撃だった。
「宗次郎!!」
俺も荒桜を抜き、 踏み込もうとする。
だが。
身体が動かない。
怖い。
圧が違いすぎる。
一歩踏み込んだ瞬間、 首が飛ぶ。
本能が、 そう理解してしまっていた。
麻生の首が、 ゆっくりこちらへ向く。
閉ざされた両目。
なのに。
確実に、 俺を捉えていた。
次の瞬間。
麻生の足元の石が、 弾け飛ぶ。
――ビュッ!!
「ッ!?」
搦手の礫。
超高速。
空気を裂きながら、 一直線に俺の顔面へ迫る。
避け――
間に合わない。
――ガァッ!!
鈍い衝撃。
礫が額を直撃した。
視界が揺れる。
頭蓋が軋むような痛み。
身体が大きく仰け反った。
「ぐ……ッ……!」
血が流れる。
足が止まる。
その“一瞬”。
麻生勝新は、 見逃さなかった。
空気が裂ける。
気づいた時には、 もう目の前にいた。
速い。
速すぎる。
ぼろ布みたいな着物が揺れる。
黒錆びた刀が、 頭上高く振り上げられる。
唐竹割り。
真っ二つにされる。
死ぬ。
そう理解した瞬間――
――ギィィィンッ!!!!
凄まじい金属音。
火花が爆ぜる。
「……ッ、宗次郎!!」
宗次郎だった。
俺と麻生の間へ、 強引に割って入っていた。
両腕へ力を込め、 頭上で麻生の刀を受け止めている。
だが。
止めているだけで精一杯だった。
石畳が、 宗次郎の足元から砕ける。
重い。
あまりにも重い。
麻生勝新の細い身体から放たれているとは思えない。
まるで、 落雷そのものを受け止めているみたいだった。
宗次郎が低く唸る。
「……喜一」
「ッ……!」
「俺が引き付ける」
その声は低い。
だが、 迷いは無かった。
「その間に…… 逃げろ」
心臓が止まりそうになる。
逃げろ?
置いて?
この化け物相手に?
宗次郎は、 ギリギリと麻生の刀を押し返しながら続ける。
「第四地区へ行け……生きてここから逃げるんだ」
血が滴る。
脇腹。
肩口。
さっき受けた斬撃。
致命傷ではない。
だが。
深い。
出血が止まっていなかった。
足元へ、 赤黒い血溜まりが広がっていく。
勝てるわけがない。
こんな化け物。
宗次郎ほどの男ですら、 押されている。
いや。
最初から、 勝負になっていない。
麻生勝新は、 ほぼ無傷。
対して宗次郎は、 既に満身創痍だった。
このまま戦えば。
死ぬ。
そんなこと、 嫌でも分かる。
だが。
逃げたら、 宗次郎はどうなる?
置いていけば。
また。
また俺は――
研究所。
赤い空。
崩れる世界。
ニコレッタ所長。
守れなかった。
何も出来なかった。
また。
また同じことを繰り返すのか。
その瞬間。
麻生勝新の身体が、 音もなく揺れた。
――ザンッ!!
宗次郎が咄嗟に受け流す。
火花。
凄まじい速度。
さらに。
二撃。
三撃。
暴風みたいな斬撃。
宗次郎は後退しながら、 ギリギリで捌いていく。
受ける度、 石畳が砕ける。
速い。
重い。
狂ってる。
宗次郎が隙を見て踏み込む。
――ギンッ!!
鋭いカウンター。
喉元を狙った一閃。
だが。
麻生勝新の身体が、 ぬるりと滑る。
避けた。
最小限の動きで。
まるで最初から、 そこへ斬撃が来ると知っていたみたいに。
次の瞬間。
麻生の刀が、 横薙ぎに振り抜かれる。
――ザシュッ!!
「ぐッ……!!」
血飛沫。
宗次郎の脇腹がさらに裂ける。
だが。
宗次郎は退かない。
血を流しながら。
前へ出る。
麻生勝新の前へ。
立ち塞がる。
そして。
怒鳴った。
「先に行けェェッ!!」
腹の底から響く怒号。
その声に、 身体が震える。
足が動く。
気づけば、 俺は後退していた。
逃げろ。
生き残れ。
それが、 宗次郎の覚悟だった。
俺は歯を食い縛る。
逃げれば、 助かるかもしれない。
第四地区へ行けるかもしれない。
でも。
その先は?
宗次郎は?
ここで死ぬ。
間違いなく。
俺を逃がすために。
まただ。
また俺は、 誰かを失うのか。
足が止まる。
宗次郎の怒号。
麻生の斬撃。
金属音。
全部が遠く聞こえる。
心臓だけが、 うるさいくらい鳴っていた。
――逃げるのか?
頭の奥で、 誰かが囁く。
――また失うのか?
「……っ」
震える手で、 荒桜を握る。
怖い。
勝てるわけがない。
次元が違う。
だけど。
それでも。
俺はゆっくり振り返った。
宗次郎が目を見開く。
「……喜一ッ!?」
俺は荒桜を構える。
切っ先を、 麻生勝新へ向ける。
足は震えている。
呼吸も乱れている。
それでも。
目だけは逸らさなかった。
「……もう」
喉が震える。
それでも、 言葉を絞り出す。
「もう…… 迷わない」
その瞬間だった。
――ドクン。
胸の奥の“星”が脈打つ。
同時に。
荒桜の刀身へ、 淡い光が宿った。
仄かに。
まるで、 呼応するみたいに。
白銀の光が、 静かに滲み始めていた。




