第十七話 六業の滝
六業の滝
巨大渓谷地帯に生まれた一本の滝
毎分100tという水量が崖下に流れており
近くでは霧により幻想的な景色が見える
第七地区を旅立ち、三日が過ぎようとしていた。
荒れ果てた旧街道。
崩れた橋。
朽ちた鳥居。
かつて人々が生き、笑い、行き交っていた痕跡だけが、静かに世界へ取り残されている。
俺たちは、そんな終わった世界を北へ進み続けていた。
昼は歩き。
夜は火を潜める。
その繰り返し。
だが、ただ移動していただけじゃない。
旅立った初日の夜から、宗次郎は容赦なく“木刀”を投げて寄越してきた。
と言っても、まともな代物じゃない。
野営中、宗次郎がその辺の樹木を無造作に斬り倒し、焚き火の傍で黙々と削って作ったものだった。
荒っぽい。
握りも雑。
重さも均一じゃない。
だが、振れば骨が軋むほど重かった。
焚き火が揺れる河原。
疲労で腕も脚も重い中、宗次郎は壁みたいな声で言った。
「構えろ」
「……今から?」
「王都へ着く前に死にたくねぇなら、少しは刀を振れるようになれ」
無茶苦茶だった。
だが、言い返せない。
この世界では、力の無い者から死ぬ。
それくらい、嫌でも理解していた。
最初は酷かった。
振るう度に体勢が崩れ、隙だらけになる。
宗次郎は容赦なく叩き込んできた。
「遅ぇ」
――バシッ。
「足が死んでる」
――ドゴッ。
「目線を切るな」
鈍い衝撃。
何度地面へ転がされたか分からない。
全身痣だらけだった。
二日目も。
三日目も。
宗次郎は毎晩、何も言わず木刀を渡してきた。
削り跡だらけの粗末な木刀。
けれど、その重みだけは妙に現実的だった。
「もう一回だ」
無愛想で。
口も悪い。
けれど、その教え方は妙に的確だった。
荒桜の扱いも、少しずつ身体へ馴染み始めていた。
――ドクン。
刀を振るう度、胸の奥の“星”が反応する。
宗次郎も、それには気づいていた。
「……お前、普通の適合者じゃねぇな」
焚き火越しに、そんなことを呟いた夜もあった。
道中、星喰人と遭遇することも少なくなかった。
宗次郎が斬る。
俺も荒桜を抜く。
まだまともな太刀筋なんて無い。
けれど、生き残るために必死で振った。
時には戦わず、岩陰へ身を潜めてやり過ごした。
星喰人の群れが、すぐ横を通り過ぎていく夜もあった。
息を殺し。
心臓の音すら消すように。
そうしてようやく、三日目の夕刻。
俺たちは、巨大な渓谷地帯へ辿り着いた。
「……これが」
思わず息を呑む。
六業の滝。
切り裂かれたような巨大渓谷。
断崖絶壁の合間を、無数の滝が流れ落ちている。
白い飛沫。
轟音。
濃霧。
空気そのものが震えていた。
自然の規模が違う。
宗次郎が立ち止まる。
「ここを抜ければ一週間程で、第四地区へ入れる」
低い声。
だが次の瞬間。
――ドォンッ!!
轟音が響いた。
爆発。
遠くで火花が散る。
さらに。
金属音。
怒号。
戦ってる。
宗次郎の目つきが変わった。
「隠れろ」
即座に岩陰へ身を伏せる。
俺も慌てて続いた。
渓谷下。
霧の向こうで、何かが激しくぶつかり合っている。
星喰人の咆哮。
赤い閃光。
そして――
銀色の騎士たち。
「……騎士団?」
数十人規模。
統率された動き。
槍。
大剣。
特殊火器。
星喰人の群れと真正面からぶつかっている。
その中心。
ひときわ異様な存在感を放つ女がいた。
長い銀髪。
黒い外套。
片手に握られた細剣から、淡い蒼白い光が漏れている。
その周囲だけ、空気が凍り付いていた。
「左翼下げろ」
静かな声。
なのに、戦場全体へ響き渡る。
「前衛二列。三秒後に押し込む」
次の瞬間。
空気が変わった。
女の周囲から、白い冷気が噴き出す。
地面が凍る。
星喰人たちの脚が、一瞬で動きを止めた。
「撃て」
――ドォォォン!!
騎士団の一斉射撃。
赤い火線が、星喰人ごと地面を穿つ。
凄まじい。
宗次郎が珍しく嫌そうに舌打ちした。
「……最悪だ」
「知ってるんですか?」
宗次郎は目を細める。
「重界騎士団だ」
「あいつが第九軍騎士長」
宗次郎の視線が、銀髪の女へ向く。
「“皆来の冥女”――イザック・ニコレット」
その名が落ちた瞬間。
――ドクン。
胸が妙にざわついた。
「……ニコレット?」
思わず、その名前を繰り返していた。
銀髪の女を見つめる。
凛とした目。
冷たい雰囲気。
戦場全体を見渡す鋭い視線。
なのに。
どこか引っ掛かる。
記憶の奥が、微かに疼く。
そして気づく。
「……似てる」
「何がだ」
宗次郎が怪訝そうに見る。
俺は視線を逸らせなかった。
「あの人……ニコレッタ所長に少し似てる」
顔立ちが完全に同じという訳じゃない。
でも。
目元。
声の張り。
指揮を飛ばす時の空気。
どこか面倒臭そうなのに、誰より周囲を見てる感じ。
それが、妙に重なった。
胸の奥がざわつく。
宗次郎が僅かに眉を顰める。
「……偶然だろ」
低い声だった。
だが、俺は目を離せなかった。
イザック・ニコレット。
その名前だけで、胸の奥に引っ掛かる何かがある。
その時。
渓谷下で、女が細剣を振るった。
瞬間。
空気が白く染まる。
凍てつく冷気。
星喰人の身体が、一瞬で氷結していく。
「……ッ」
思わず息を呑む。
宗次郎が低く呟いた。
「あいつは、“冥府の名を司る星”の力を扱う」
白い冷気が、渓谷そのものを侵食していく。
まるで、生命を拒絶する世界だった。
宗次郎はさらに続ける。
「新都市グラビアス直属。重界騎士団の連中だ」
宗次郎の声が、僅かに低く沈んだ。
短く吐き捨てるように言ったはずなのに、その響きには妙な重さがあった。
俺は思わず宗次郎を見る。
いつもなら、どんな相手を前にしても顔色一つ変えない男だ。
蒼冥相手でも。
星喰人の群れ相手でも。
平然としていた。
なのに今、宗次郎の目には僅かな緊張が浮かんでいる。
いや――違う。
これはただの警戒じゃない。
もっと深い。
長年、名を聞き続けてきた者だけが抱くような、本能的な畏怖に近かった。
宗次郎は霧の向こうにいる銀髪の女を見据えたまま、低く呟く。
「……グラビアスは異質だ」
滝の轟音に紛れそうなほど小さい声。
だが、妙にはっきり耳へ残った。
「倭ノ国の大将軍――安須森様が、アルハルド事件後に復興と再建を進めた際、グラビアスと同盟関係を結んだって話は聞いてる」
宗次郎はゆっくり続ける。
「だが、その中身までは分からねぇ。蒼冥総長でさえ、多くは語らなかった」
白い冷気が、渓谷を侵食していく。
その光景を見ながら、宗次郎は僅かに眉を顰めた。
「そもそも今の倭ノ国の要塞城構想自体、安須森様とグラビアス側が共同で考案したって噂もある」
俺は息を呑む。
要塞城。
巨大外壁。
あの異常な防衛構造。
全部、この世界で生き残るために築かれたものだった。
宗次郎は低い声で続ける。
「各地区に城を築き、防衛線を重ねる。外壁と武士団で侵攻を食い止める。今の倭ノ国の形は、アルハルド事件後に出来上がったもんだ」
その声には、僅かな敬意すら混じっていた。
霧の向こう。
白銀の冷気が揺れる。
宗次郎は目を細めた。
「異国の地の中でも、あそこだけは空気が違う」
その一言だけで、空気が変わった。
倭ノ国の武士団とも違う。
地区を治める当主たちとも違う。
新都市グラビアス。
その名には、妙な重みがあった。
「重界騎士団は、そのグラビアス直属の戦力だ」
宗次郎の声が重く沈む。
「武士団とは練度が違う。装備も、戦い方もな」
視線の先。
イザック・ニコレットが細剣を振るう。
瞬間。
白い世界が広がった。
凍てつく冷気。
星喰人たちの身体が、音もなく氷結していく。
まるで、死そのものを具現化したような光景だった。
「軍を任される騎士長クラスは、一人で戦況を変える」
宗次郎は低く呟く。
「特に――あの女は危険だ」
即答だった。
「下手すりゃ、第七地区ごと凍らされてもおかしくねぇ」
冗談には聞こえなかった。
宗次郎は小さく息を吐く。
「……重界騎士団とは、出来れば関わりたくねぇ」
その言葉だけで十分だった。
宗次郎ほどの男が、ここまで言う。
それだけで、中央都市グラビアスという存在がどれほど異質なのか理解できた。
力。技術。統率。
その全てが、倭ノ国の常識から少し外れている。
まるで、別の理で動いている都市みたいだった。
そして同時に。
胸の奥が妙にざわつく。
恐怖だけじゃない。
もっと別の、説明のつかない感覚。
その時。
渓谷下でイザック・ニコレットが、ゆっくりこちらを見た。
「――ッ」
目が合った。
凍り付く。
距離がある。
なのに。
確実に、見られたと分かった。
宗次郎が舌打ちする。
「……チッ」
イザックの細剣が、ゆっくりこちらを向いた。
その刹那。
周囲の空気が、一気に冷え込んだ。
白い冷気が渓谷を這い、岩肌を凍らせていく。
思わず息を止める。
だが。
イザックの視線は、俺たちではなく、その少し奥――岩陰に潜んでいた獣型の星喰人へ向けられていた。
「――そこ」
静かな声。
次の瞬間。
細剣が一閃する。
白銀の軌跡。
直後。
岩陰ごと空間が凍り付き、潜んでいた獣型の星喰人が、悲鳴すら上げられず氷塊へ変わった。
――パキィンッ!!
騎士団の砲撃が炸裂し、氷ごと粉々に砕け散る。
氷片が、霧の中へ舞った。
「……っ」
背中を嫌な汗が流れる。
宗次郎が小さく舌打ちした。
「行くぞ」
「え?」
「今のうちだ。あいつらも星喰人の処理で手一杯になってる」
低い声。
俺たちは身を低くし、岩場の陰を縫うように動き出した。
六業の滝周辺は、天然の迷宮みたいだった。
巨大な岩壁。
幾重にも流れ落ちる滝。
濃霧。
足場の悪い獣道。
少し踏み外せば、そのまま渓谷底へ真っ逆さまだ。
轟々と鳴り響く滝の音が、会話すら掻き消していく。
宗次郎は迷いなく進む。
「こっちだ」
低く短い指示。
俺は必死に後を追った。
湿った岩肌へ手を掛け、細い足場を渡る。
冷たい飛沫が全身を濡らした。
後ろでは、まだ騎士団と星喰人の戦闘音が続いている。轟音。咆哮。金属音。
時折、空気そのものが凍るような冷気が吹き抜ける。
その度に、背筋が粟立った。
「……宗次郎」
「喋るな」
即答だった。
宗次郎は周囲を警戒したまま、鋭い目を霧の奥へ向けている。
「ここは音が響く。余計な気配立てんな」
俺は口を閉じる。
滝の轟音が、渓谷全体を揺らしていた。
俺たちは岩場の陰を縫うように移動し、六業の滝の奥へ進んでいく。
その頃。
渓谷下では、戦闘が終わりを迎えつつあった。
星喰人の亡骸。
凍り付いた地面。
白い冷気が、未だ周囲へ漂っている。
銀髪の女――イザック・ニコレットは、細剣に付着した氷を静かに払った。
騎士たちが周囲の警戒を始める。
だが、彼女だけは動かなかった。
静かに目を閉じる。
そして。
ふと、先程の岩場を思い返す。
黒髪の男性。
驚いた顔。
自分を見た瞬間、確かに揺れた眼。
胸の奥に、説明のつかない違和感が残っていた。
なぜか、妙に引っ掛かる。
まるで、遠い記憶の欠片が疼くような感覚。
イザックは小さく目を細めた。
「……喜一」
誰にも聞こえないほど、小さな呟き。
思い返すように。
確かめるように。
その名を、静かに口の中で転がした。
だが次の瞬間。
彼女はいつもの冷たい表情へ戻る。
「騎士長?」
部下の声。
イザックは振り返りもせず、淡々と答えた。
「調査を再開する」
冷たい声だった。
けれどその胸の奥には、小さな波紋だけが、静かに残り続けていた。




