網谷明子の高いベッド・4
立子は、部屋の二分割案を、二人で浸かる湯船の中で明子に提示した。ちゃぽん、という水の音以外しない欲室内の方が、落ち着いて話すには良いのではないかという判断の下である。
「まあ、そう広くないんだけどさ。私は部屋散らけるのが得意だから、その方があんたにも良いだろう?」
「私は、一緒でも構いませんよ」
狭い湯船をかき混ぜながら、明子はそう応えた。どちらかと言うと、一つの部屋を共有するという状況にこそ、明子の興味はあった。
「お風呂も、一緒に入っていますし」
二人が一緒に風呂場へ入っている事の発端は、名前を訊くだけだった明子の命令を不服に思った立子が、もう一つ命令してくれと頼んだ事にある。明子はそうとう迷った挙句、一緒にお風呂に入るよう頼んだのだった。
「風呂と部屋じゃ、また勝手が違うだろ?」
立子は立子で、その程度の事を恥じらうような性格ではなかったので、快諾して今に至るのだった。
「あと……猫、苦手なんだ。アレルギーじゃないんだけどさ」
「なるほど、そうだったんですね。気付かなくてごめんなさい」
「いや、こっちこそ、すまないね」
ただ、立子は、思いの外白い明子の肌の柔らかさと物腰の柔軟さに、軽くのぼせつつあった。ポーッ、と赤らんだ顔は、湯加減だけが影響した訳ではない。そんな気があった訳でも今ある訳でもないが、ついつい目を逸らしてしまう。明子はそんな立子の様子を、不思議に思いながら眺めた。
「そろそろ、上がろうか」
立子は、明子に背を向けて湯船から立ち上がった。
「駄目ですよ。まだ早いです」
そんな立子の腕を、明子は引っ張った。立子の体が、また湯船の中に戻る。
「百は数えないと、体が冷えてしまいます」
「もう二分は経っただろ?」
「まだ八十七秒でした。まだ、一からです」
立子は、顔の赤らみを更に増した。
およそ京間八畳くらいの寝室兼居間を、二つに割る。八畳は真四角の形をなしているから、分けるのはそう難しくなかった。知らない間に配給されていたらしい夕食を二人で食べると、時間と共に二人の仲もだいぶ進んでいた。
時計は十時を指している。猫は夜行性の誇りをどこに忘れたのか、既に明子の陣地内でうとうとと眠りかけていて、そんな様子を眺めている内に、明子にも眠気が訪れてきた。
「布団、置いとくよ」
同じような状態らしい立子は、布団をどすんと落としながら、そう言った。その格好がどうも寝巻きに見えず、明子は尋ねた。
「どこかへ、お出掛けになるんですか?」
「ああ。けったいなのに呼ばれてね。三十分もしたら帰ってくるよ」
立子は薄い上着をはおった後、明子に枕を放り投げた。枕は、取り易い程度の放物線を描いて、明子の手に吸い込まれて落ちた。
「分かりました。では、お帰りをお待ちしていますね」
「遅くなったら、先に寝なよ。待っててくれんのは、嬉しいけどさ」
立子は、そう言い残して部屋を出て行った。
一人残った明子は、とりあえず自分の陣地へと布団を敷いて、少し迷った後、立子の陣地の方にも敷いた。今から三十分となると、十時半になる。明子にとって、十時半というのは就寝時間だった。
「ミャー」
布団を敷く音で目が覚めたのか、布団の上に座った明子の足へ、猫が上ってきた。
「みゃあみゃあ」
「ミャー」
猫は、いつもよりよく鳴きながら、それから首の辺りを気にして毛づくろいをしている。その頭を優しく撫でてやりながら、明子は意思疎通を図って真似をした。
「……今日は、色々ありましたよね」
「ミャー」
「ちょっと想像と違う所もありましたけれど、私、嬉しいです」
穏やかな笑顔で、明子は自分にも聞かせるようにして、言った。
「今日からは、ここが家です。立子さんが、家族です」
「ミャー」
「……そうですよね。楽しみです。明日も、明後日もあります」
明子は、頭を枕に付けた。すぐ隣に猫が来るのを見て、また背中を撫でてやる。
「立子さんには悪いですけれど、もう眠りましょう。私は、とても眠いです」
「ミャー」
目を閉じた明子が感じたのは、猫の静かな呼吸音と、部屋のやけに冷たい空気だけだった。明子はゆっくりと、だが着実に、眠りへと落ちていった。
がやがや。すぐ近くから聞こえる話し声で、明子は目を覚ました。
「世捨て人みたいだねぇ。ま、私にゃ関係ない事だけどさ」
横を見ると、畳んだ布団の上に座った立子が、携帯電話を耳に当てて誰かと話をしていた。立子は、自分の方を見る視線に気付いて、電話を少し離した。
「おはよう。良い朝だね」
「あ、はい。おはようございます」
明子の返事を聞いた立子は、満足したらしくまた電話を耳に当てた。明子はとりあえず事情を予想して、わきまえた女性らしく猫を連れて部屋を出た。
334号室を出て、その扉の前に座る。確かに、今日がやってきた。明子はその実感を得ていた。昨日には、自分は新しい世界へ飛び出た。そして今日は、新しい世界で初めての朝を迎えたのである。
「ミャー」
猫の鳴き声も、どこか胸騒がせる色を帯びている。明子はそんな風に感じる自分をおかしく思って、手で口を覆いながら小さく笑った。




