網谷明子の高いベッド・3
目は、明らかに合っていた。
一体どうしてか、という疑問と、無作法な事をしてしまったという後悔の思いが、寮の部屋割りについて話す男の声を脳に近付かせないよう、明子の頭を占領した。別段、変わった所のある目ではなかった。しかし、妙に引きつけられた気がする。
割符のような木の板の束が、左側から回されてきた。木の先には鍵が付いていて、それが何であるかは一目に瞭然であった。
「ありがとうごさいます」
明子は束を受け取ると、その内一本を引き抜いて、右へと回した。取った板には『334』と赤のインクで記されていて、明子はこれから生き生きとし始めるはずの自分の生活を思い浮かべた。
だが、この周りの死んだような顔を見た後で、334号室で楽しく生きる自分を想像する事は、あまりにも難しい事だった。
説明会は、寮の鍵渡しを最後に、お開きとなった。他にもプログラムでは用意されていたようだったが、時間が足りなかったらしい。残りは部屋に置いてある説明資料を読んでくれ、という司会の男の声を聞きながら、明子は説明会の会場を後にした。
334号室は、その名前通り、同じ三階にある説明会の会場から数えて三十四番目の部屋だった。それを地図で確認した明子は、四階へと向かう人の波からは外れて、真っ直ぐ廊下を歩いた。
「ミャー」
猫は、会場を出てからというものずっと落ち着かなさげにしていて、心地よいはずの明子の腕の中を離れて、自分で歩いている。血統書付きというだけあって静かであるという点では他を寄せ付けない猫だったのだが、どうも昨日から様子がおかしい。
「みゃあみゃあ」
「ミャー」
猫も、自分と同じ様に、血統書からの脱出を楽しみにしているのだろうか。明子はそう尋ねてみたい思いで、真似をして鳴いた。だが、猫の表情は、どこか晴れない。少なくとも、楽しそうには全く見えなかった。
330号室が通り過ぎて、いよいよ334号室の扉の前に立つと、扉の方から明子が手を伸ばすより先に勝手に向こうへ引いていって、独りでに開いた。
「おや、あんたが私と相部屋かい?」
部屋の中から、明子にとって久しぶりの同年代の女が、明子に声を掛けた。
「はい。そうみたいです。よろしくお願いします」
「そっちの猫は?」
「私の、お友達です」
女は、馬鹿にするようにハッ、と笑った。
「高そうな猫だねぇ。血統書付きの猫に、箱入りの娘か。お笑い種だね、こんなのは」
女の高飛車な物の言いように、明子は言葉に詰まった。だが、ここで黙っていてはいけない。それは、箱入り娘である証拠である。そう思い直して、明子は口を開いた。
「だから、私たちはここに来ました」
声に力を多く込めたという訳ではなかったが、女は明子の言葉に一瞬たじろいだ。そして、今度は小さく女性らしい笑みを浮かべて、
「そんな甘い所じゃないよ、ここはさ。まあ、中に入んなよ」
と扉をさらに引き広げながら、部屋の中へと戻っていった。明子も、また閉まろうとする扉を軽く押しながら、廊下を後にした。
明子の部屋に比べれば相当小さく、明子の予想に比べればかなり大きい。二人部屋の334号室の大きさは、大体そんなものだった。
「腕相撲をしよう。お嬢様でも、それぐらいは知っているだろう?」
一つの机に向かい合わせに置かれた椅子へ、明子はとりあえず腰掛けた。椅子は、硬かった。
「腕相撲……ですか?」
もちろん、明子にもその名前についての思い出があった。大学生の頃、一度だけ腕相撲大会なるものに参加し、惨敗した思い出だ。その時には、両親からさんざん叱られた。野蛮な事に時間を費やすな、と。
「ああ。そうさ。腕相撲ってのは、単純にその人の力が出るからね。ま、ちょうどいいのさ」
「そうなんですか。では、ぜひ」
「よしきた。あんた、利き手はどっちだい」
明子は両利きだった。だが、尋ねながら女が右袖をまくるのを見て、
「右利きです」
と答えた。
「お、それなら私と一緒だね。ちょうどいい」
女は、明子と向かい合わせに椅子へと腰掛けた。そのまま、腕を伸ばす。明子はその手を、丁寧に軽く掴んだ。
「いくよ。せ、え、の!」
女の掛け声で、腕相撲は始まった。ただ、明子はそれに、五秒ほど気付かないでいた。女の押してくる力が、あまりにも弱かったからである。明子が少し力を込めてやると、女の手は容易に向こう側へと倒れて机についた。
「ま、負けた……。ちぇっ、あんたになら勝てると思ったんだけどなぁ。いいぜ、勝者は敗者に一つ命令する。何でも言ってくれ」
事前に説明もなく、突然だった女の言葉に、明子は思いつくがままに、
「では、お名前をお聞かせ下さい」
と言った。
「名前?」
「はい。私は、網谷明子です。あなたのお名前は?」
女は、少しの間硬直した後、大きく笑った。
「あんた、面白いねぇ。分かったよ。私は倉岡立子ってんだ。これから、よろしく頼むよ」
女が差し出した手を、明子はしっかりと握って、今日初めての笑みを浮かべた。




