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夢森の歌  作者: K_yamada
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網谷明子の高いベッド・2

 不安げな両親が、座り心地悪そうに後部座席から明子の首や背中を見守る中、明子は右前にある助手席に太腿の上へ猫を乗せ、ささ無表情で座りながらその実、心の内では密かな達成感を得ていた。

 一生、持てないと思われていた自立の時である。車中に掛けられたラジオ番組は、時に苦戦しながらも勇敢に戦う東北方面部隊の様子を伝えていた。戦場に集うのは、死をも恐れぬ勇士たちだと言う。明子は、網谷家とは次元の違う所で戦う彼らに、憧れ、酔った。

 ただ、少なくとも、明子が配属された京都地区には、そんな激烈な戦いはないのだと聞いていた。この混乱の機に政府を転覆させんと企む人々を取り締まったり、時たまに彼らに応戦して撃ち合う程度であると。明子は家で話を聞いた時、スーツ姿の役人が話すのを、目を輝かせて聞いていた。

 国道一号線を東へ進んでいく。京都市山科区最大のターミナルである山科駅の周りに、国防隊用の施設は建てられていた。神戸市の明子の家からだと、大体一時間ほどかかる。その全行程の内ほぼ九割を既に進んでしまった車の仕事は、残すところ北へ一,二キロの道のりを進む事だけであった。

「体を冷やさぬよう、常に気を配るのですよ」

「はい。分かっています、お母様」

 母は朝から、ずっとこんな調子だ。離れる娘が気がかりで仕方ないのだろうが、それが明子には却って腹立たしく思われた。娘の門出に、どうしてそんな、情けのない事しか言えないのだろうか。明子の不満は、これから巣立つのでなければ、今にも爆発してしまいそうだった。

「明子。五年で、お前は戻る。だからそれまで、どんな手段によっても、無事でいなさい」

 戦闘員は、五年間務めれは職を辞しても良い事になっていた。もちろん、明子にそんな気は毛頭なかったが。

 左折して、外環状線を進む。季節らしい秋の紅葉は、中途半端に都市化が進んだ外環状線の辺りには全く見られない。紅葉と言えば、毘沙門堂は山科だっただろうか、と明子が始めた思案が終わるまでに、車は駐車場の中へ綺麗に停車した。

「……では、行って参ります。お父様、お母様」

「ああ……。しっかりな」

 心ここにあらずと言った感じで、立ち上がりもしない両親を助手席から振り返って別れを告げると、明子は猫を両手で抱きかかえて早々に車から降りた。母娘、あるいは父娘としては異常とも言って良い、淡白な別れであった。

 車から降りて別れを惜しむ運転手にいくらかの挨拶を述べた後、明子はすぐ近くにあった自動ドアを通って、建物の中へと入った。敷地面積は相当広いらしく、それは昔あったという東京ドームの面積の、およそ八倍ほどと明子の手元の資料には書かれている。あまりに広い為に迷子になる事も多いらしく、その資料には地図も添付されていた。平面駐車場は一階にあり、新戦闘員の説明会会場は三階にある。階段もあるようだったが、明子は一番近くに見つけたエレベータに乗った。二百名が集まったと聞いていたが、エレベータ内に明子以外の誰かが入ってくる事はなかった。

「ミャー」

 可愛げもなくそう鳴きながら、猫は明子の胸から逃れるようにして、上昇するエレベータの床に飛び降りた。久々の地面の感覚を味わうようにして頭をすりつけると、せっせと毛づくろいを始める。

「みゃあみゃあ」

「ミャー」

「昨日は静かでしたけど、今日は一段と張り切っていますね」

 耳の裏の毛の逆立ちが気になるらしく、猫はしきりにその部分を手で掻いていた。明子がしゃがんで撫でてやると、猫は気持ちよさそうに座り込んだ。だが、それと同時に、エレベータの到着を告げるやたらにピッチの高い音が機内に響いて、エレベータの扉が開く。

「また、運んであげないとだめですね」

 立つ気のない猫をそっと抱き上げ、明子はエレベータを降りた。

 館内は、さほど清潔という訳でもなかったが、全体的に素朴な色合いの内装をしていた。一目で大理石でないと分かる石の壁、コンクリート剥き出しで軽く黒ずんだ床、無数に並ぶ木製の扉。照明は古臭い白熱電灯を使っているらしく、切れ掛かった電灯の一つが何度も何度も点滅を繰り返している。廊下は、明子の通っていた高校のそれと比べても、大差ないほど狭い。望んでいた訳ではなかったが、もう少し綺麗で整った環境を想像していた明子は、少なからず驚いた。

 狭い廊下を歩いていくと、やっと同期らしい人々の姿が見え始めた。ティーシャツ姿の壮年の男も居れば、手をポケットに突っ込んでガムを噛む金髪の若い男も居る。その他お坊さんのような者やひどく太った者なども居たが、女は一人として見受けられなかった。

 説明会の部屋は、廊下を五分ほど歩き詰めて、やっと入り口の扉が見えてくるほど遠くにあった。明子が、続々と扉の向こうへ進んでいく雑踏に従って扉を抜け、そのまま渡り廊下のような道をいくらか歩くと、大広間とも呼ぶべき広い部屋に辿り着いた。

「奥の席に詰めて座って下さい」

 会場整理の係員と思われる女が、大広間の真ん中で、そう声を張って人々に指示している。明子はそれに従って、部屋の左奥の席へと座った。明子が来る前から左隣の席にいた若い男は、明子がすぐ隣に来ても何の反応も示さず、ただ一心にうつむいて、床の一点を見つめる事に集中している。明子の次に座った四十前後の男は、十秒に一度は溜息をついており、落ち着きがない。その両者の不審に気付いてからやっと、明子は会場全体がそんな雰囲気に包まれている事を感じるようになった。

「ミャー」

 猫もその辺りは敏感なようで、しきりに明子の膝を叩いては、心配そうに鳴いた。そんな猫の首を撫でてやりながら待っていると、五分ほどして会場の正面にあるマイクの前に、六十ちょっとと思われる男が立った。

「では、これより、初期説明を始めます。時間節約のため、寮などでの規則につきましては、以前送付済みの資料をご確認下さい。始めに、戦闘バエについて簡単な説明を、開発者の村上より行います」

 男は、別段歓迎する様子でもなく、淡々と手元の紙を見ながらそう読み上げた。そして、男が下がるのと入れ替わって、眼鏡をしたいかにも粘着質そうな女がマイクをスタンドから引き抜いた。

「戦闘バエについては、資料にも詳しく書きましたから、皆さん基礎知識程度はご存知かと思います」

 女の言う通り、明子が出発前に心躍らせながら読んだ資料には、戦闘員が寄生虫の宿主と対峙する時の一番の武器として戦闘バエが挙げられていた。人間に従順かつ強力に飼育されたハエ達は、他のどんな手段よりも戦いに向いているらしい。

「しかし、いくつか注意点がある訳です。もちろん皆さんなら大丈夫だと思いますが、時々破って酷い目に遭う方もおりますので」

 その原因は明子には分からなかったが、女はひどく苛々しているようだった。言葉の角が一々立つし、声も荒々しかった。

 そのピリピリとした声で、女はまず、ハエへの合図について説明をした。『ゴー』が『行け』、『カム』が『来い』。たったそれだけの事だったが、女はその説明に十分ほどを費やした。所々であくびの声が漏れ始めた頃、やっと次の話が始まった。が、それも同様に無駄に時間を掛けた割に内容は薄く、それにどれも資料に書いてあるままであったので、さすがの明子も眠たくなって、猫の頭を撫でて時間を潰した。

 結局、三十分以上も時間を費やした後、女はマイクの前から去っていった。

「次に、記録員長からの挨拶ですが、記録員長が体調不良ですので、記録員長代理からの挨拶です」

 司会の男がそう告げると同時に、ひどく緊張して動きの悪い若い男が、ゆっくりとマイクの前に立った。


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