黒田悠木は続かない・6
柔らかな日差しは、あなたの頬を突き通すのには十分で。だけれどそれは、あなたの失われた体温を、戻してはくれなかった。
違えてしまった約束を。もう、失えてしまわないように。
「……すまないがね。歌うなら、もうちょっと陽気な唄にして貰えるかね」
ゆっくりながら進んでいた筆を置いて、悠木は後ろの美優を振り返った。
「ずっとそんな唄を聞かされてたんじゃ、こっちまで気が滅入っちまう」
「あら。これは、明るい曲よ? あなたの音楽センスでは、分からないかも知れないけれど」
美優は歌うのを止めて、にこりともせずにそう言った。悠木はその言葉にすぐには応えず、また筆を手に取る。
「……で、それは何の唄なんだ?」
そうして、まるで関心などないという様な格好をつけておきながら、悠木は尋ねた。
「新手の鎮魂歌よ。作詞作曲は私」
「鎮魂歌が明るい曲か。時代は、俺が知らない間に大きく変わったようだね」
「新手と言ったでしょう?」
風があなたの腕、雨はあなたの手。私は窓を開け、傘も刺さないで外を歩く。
美優はまた、歌い出した。さっきまではその明るくはない歌詞に気を取られて気付かなかったが、美優の歌声は美しい氷のように透き通っている。悠木は、その声を止めるのが突然に勿体なくなって、まだ数枚しか書き上げていない原稿へと向かい直した。
雪はあなたとのキス。積もって、私たちは雪だるまになる。
「……本当は、歌手になりたかった。結局途中で止めてしまったけれど。それで、こんなに中途半端な音楽理論なのよ」
「ふむ。音楽センスのない俺には、どこが半端なのか分からないな」
美優は、目を閉じた。多分彼女にも挫折があって、それでこんな所にいるのだろう。悠木は、自分よりもまだ若い少女の心を、そう読み取った。
「ナンセンスマンね。これからはそう呼ぶわ」
「相変わらず、名付けのセンスはピカイチだな。恐れ入るよ」
「結構よ」
暖かい日が来たなら、それはあなたの吐息。失くしたあなたを、二度と忘れないように。
美優が歌っている間、悠木は手も動かさず、聴衆を演じていた。聞き惚れた訳ではない。だが、少女の歌声を、誰も聴いてやらないのは、どうも残酷な事のようだと悠木には思たのだった。
もし、いつか、雨が止んで静かな朝の木漏れ日に、あなたが居なくなってしまっても。
すうっ、と美優は静かに息を吐ききって、そこで歌うのを止めた。
「終わりよ」
「半端な所で終わったな。まだ未完成なのか」
「正解。とは言っても、続きを作る気はないのだけれど」
美優は小さな微笑みを浮かべている。それは、満足を得た人間の表情だと、悠木は思った。そして同時に、まだ年端もいかない少女が満足を得ている事に、強い違和感を覚えた。
「そりゃあいけねぇな。人間、向上心を持たないと生きていけないぜ」
戯れのように、悠木は茶化してそう言った。だが、美優はその真意をも見通したかのように、
「そんな事はどうでも良いの。それより、筆が進んでいないわよ」
と突き放した。
「……ふう。これはこれで、大変なんだぜ」
「だからあなたに頼んだのでしょう? しっかり仕事はして貰うわよ」
悠木は再び、原稿用紙を睨みつけた。
夜七時になって、美優が手に握っていたタイマーがけたたましい音を立てた。
「終了の合図か」
「違うわよ。これは、呼び出しの音」
美優は、長く座っていた椅子から立ち上がると、背もたれにかけていた上着を羽織った。良い香りのする微風が、悠木の前を通り抜ける。
「きっと、また暴徒だと思うわ。最近多いし」
「そりゃあ、精力的なこったな」
何もしない“理想的な”国民よりは、こうして何らかの思いを持っている“暴力的な”国民の方が、まだ人間らしい。悠木は、自分とその暴徒とを重ね合わせて、そう思った。
「少し、出てくるわ。あと、書くのはいつ終えても良いわよ」
「ああ。もうちょっと書いて、店じまいさせて貰おう」
「また明日もあるのだし、ね」
美優の呟きは、心成しか独り言のように悠木には聞こえた。
部屋を出て行く美優を見送ってから、悠木はペンを二分ほど動かした後、ベッドに寝転がった。
ここへ来たばかりの頃のこの部屋とは、あるいは一昨日までのこの部屋とは、今日のこの部屋は全く違う。悠木はぼんやりと、そんな事を考えた。それは、何も近くに女がいるからではない。やりたい、と思える事をしている。それがこんなにも楽しい事だったとは、思いもしなかった。こうして、正しい歴史を後世へと伝える。ひょっとすると、後世などないかも知れない。怠惰と私欲から抜け出ない人々は、このままの勢いによって滅ぼさているかも知れない。だがもしそうだとしても、次に生まれる文明社会が言語を解読し、事実を知る事ができる可能性が残されているのなら、この作業は決して無駄にはならないのだ。それは、プライドにまみれた嘘の歴史を書く事より、ずっと価値のある事に悠木には思えた。滅ぶであろう人類がなし得る最後の仕事を、預けられているような心持ちがした。
「俺の夢、か……」
目指していた未来はこんな物ではなかった。だが、悠木は今のこの仕事に、ある一定の満足をしていた。最善ではないが、今できる一番やりたい事。それに出会えたような気がした。
まどろみかけた悠木は、その耳に、扉の強く開く音を聞いた。




