網谷明子の高いベッド・5
電話はそろそろ終わっただろうか、と、明子は五分ほど前に出てきたばかりの扉を、また中へとくぐった。
「ん、朝からすまなかったね。もう終わったよ」
部屋の中では、立子が着替えを始めていた。寝る時は外しているらしいブラを、大きいとも小さいともとれない標準的な胸に当てる。立子はその上にジャージを着て、更にランニングウェアを着込んだ。
「お出掛けになるんですか?」
その様子を目の端で見て、明子は尋ねた。
「ああ。ほら、昨日説明されただろ? 自主訓練って奴さ」
「そうなんですか。そう言えば、ハエさんを使う練習をしておくようにって仰ってましたね」
昨日の眠たくて仕方なかった女の話の中で、明子は確かにそんなフレーズを聞いていた。全く集中していなかったためについつい忘れてしまっていたが、立子はちゃんと覚えていたらしい。
「そうさ。あんたは来ないのかい?」
立子は脱いだ服を丁寧に畳みながら、部屋の入り口で立ったきりの明子に尋ねた。
「どうせここじゃ、他にする事もないよ」
立子の態度は、明らかに軟化していた。初対面からまだ一日と過ぎていないのに、と明子は内心かなり喜んでいた。そして、立子の申し出は、そんな明子にとっては渡りに船だった。
「はい、私もご一緒します」
明子は、布団の上に持参したスポーツウェアを広げた。明子の体にピッタリと作られた物だったが、経年劣化と成長によって小さくなってしまっている。
「待っててやるから、そう急がないでおきな。万年床にならないようにね」
「はい。ありがとうございます」
寝巻きを脱ぎながら、明子はお辞儀をした。あまりにその格好が滑稽だったので、立子が笑いをこらえかけて、間に合わずそのまま吹き出して、それからくくく、と笑った。
「あんたと私じゃ、タイプが全然違うようだね。育ちの違い以前にさ」
「それって、どういう意味ですか?」
「言葉そのままの意味だよ」
明子は首を傾げたが、立子はそれ以上何も言わず、ただ目で早くするよう促すだけだった。
goにcome、stop、そしてfly。この四つが、戦闘バエに与えられる命令の全てであるらしい。体育館のような広いスペースに集まった数人に交じって、明子はハエの扱い方の説明を受けていた。猫も、明子が運ぶまでもなく勝手にその後ろをついてきて、利口にも腰を落としている。
ハエは、明子が思っているよりずっと強く、そしてずっと頼りになるようだった。昨日受けた説明も合わせれば、地球上で最も強い凶暴バエが、人の一番の友達で、ハエが人を襲う事は絶対にないらしい。
「ミャー」
広い館内によく響く猫の鳴き声に顔をしかめながら、説明員の男は、訓練に本物の凶暴バエは使えないという事を説明した。
「……こんな訓練か」
続けて男が四つの命令を使い分ける練習をするよう促すと、立子は小声で不満を漏らすように言った。明子も同様に、思わず拍子抜けなその内容に、驚きを捨てられずにいた。
「これじゃ、部屋で何かする方が、よほど有意義だね。馬鹿らしい」
説明員から遠ざかるでもなく、そのままの距離を保って立子は腕を組んだ。
「私は、初歩英語を学びにきたんじゃないしね」
「きっと、何かの役には立ちますよ」
憚らない立子の言葉を何とか掻き消そうと、明子は半ば被せるようにしてそう言った。
「途中で止めては、訓練になりませんし」
「最後までやってもならないだろうね。良いよ。あんたは最後までやってたら良いさ。私は帰るけどね」
立子はそう言って、頭の上で手を振りながら出口の方へと歩き、そのまま出て行ってしまった。明子は追いかけようか追いかけまいか迷ったが、猫が先に立子を追いかけて走り出してしまったので、それを追いかけて体育館を後にした。
猫は、正確に334号室への最短距離を辿っていた。迷いのないその足取りは、明子に捕まらないでいるには十分すぎるほどの速さを持っている。だが、明子も自分の取り柄を存分に発揮して必死に走ったので、明子が猫を見失うという事もなかった。
「……居ません、ね」
息も絶え絶えに、明子は334号室の前で丸まる猫にそう話しかけた。334号室の中は真っ暗で、誰の気配もしない。立子はどうやら、他のどこかに行ったらしかった。
「ミャー」
「そうですね。先に入って、お待ちしましょう」
しきりに扉を前足で叩く猫を、明子は扉を開けて中に入れるようにしてやった。猫は今度はゆったりとしたスピードで、部屋の中へと入った。
「ミャー」
猫はそのまま、部屋の奥の明子の陣地まで歩いていくと、窓際に至ってやっと立ち止まり、座った。明子も、そのすぐ隣に座ってみる。それは何となく、当然の事のように思えた。
「ミャー」
「みゃあみゃあ」
猫の鳴き声がどこか寂しげで力がなかったので、明子は励ますような声色で、真似をした。猫はだがそれでも、しきりに前足で毛づくろいをして、落ち着きがない。
「大丈夫です。立子さんは、きっと他の所で訓練されているだけです」
「ミャー」
「私たちは、お帰りをお待ちしていましょう」
明子は、猫の背中をそっと、いつもするよりもいっそう優しく、ごくゆっくりと撫でてやった。猫は襲い掛かってくる快感と眠気に耐えられなくなったのか、目を細める。その様子をじっと眺める明子も、徐々に頭がぼんやりとしてきて、ある時まぶたが閉じられてからは、静かな寝息を立て始めた。
明子は、自分を呼ぶ男の子の声を聞いた。
それは明子にとって、唯一と言って良いだけの価値を帯びていた。何故なら、その声こそが、明子の初めての恋の相手の物だったからである。
声が、どんな言葉を発しているのか、それは分からない。分からないがただ、聞いた事のある言葉回しに、明子の心は安らいだ。
広い庭を、その声の主と一緒に走った。白と黄の花に、蝶が飛び交うような緑の中を、踏み分けもせずただ純真に追いかけあう。二人は、男女の枠を超えた関係を得ていた。
いつから、会わなくなったのだろう。明子はそんな事さえ、分からないままだった。いつだっただろう、と考え始めたところで、無意識は急速に収縮し、明子は意識へと吸い込まれていった。




