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第九話:言葉のない手触り

 夏休みの気配が、図書館にも入り込み始めている。

 午後三時を過ぎると、涼しさを求めてやってくる子供たちの声が、遠くの波のように聞こえ続ける。


 栞(しおり)は児童書コーナーの奥、図鑑が並ぶ木製の棚の前にいた。


 その一番隅、床に近い場所に、一人の少年が座り込んでいる。

 少しサイズの合っていない、真新しい夏服の中学生だった。

 昨日も、一昨日も、同じ時間にやってきて同じ場所に座っていた。

 膝の上に分厚い植物図鑑を開いているが、視線はページの上を滑っているだけだ。

 文字を読んでいないことは、ページをめくる不規則なリズムで分かる。


 少年の指先は、常にどこかをいじっていた。

 ズボンの裾、図鑑の硬い角、自分の爪。

 何かを探すように、あるいは、何かにすがりつくように。


 栞は図鑑の棚の整理を終える。

 少年の指先が、今はシャツのボタンを力なく弾いている。


 栞はカウンターへ戻り、奥の棚から一つの束を手にした。

 本ではない。貸出禁止のシールも貼られていない。

 それは、様々な種類の紙を束ねた、装丁用の『紙の見本帳』だった。


 少年のいるコーナーへ戻る。

 彼はまだ、同じ姿勢で図鑑を見つめていた。


「少し、狭くありませんか」


 栞が声をかけると、少年はびくっと肩を揺らし、図鑑を閉じようとした。

 何かを言おうとして、喉が小さく動く。だが、音にはならない。


「よろしければ、こちらをどうぞ」


 栞は、見本帳を少年の隣の床に置いた。

 重みのある音がした。


「……何、これ」


 かすれた声が、ようやく零れ落ちた。


「文字は一つも書かれていません」


 栞は言う。


「ただ、紙の厚さや手触りが、一枚ずつ違うだけのものです」


 少年は戸惑うように、見本帳を見た。


「読む本ではありません。ただ、触るためのものです」


 栞はそれだけ残し、足音を立てずにその場を離れた。

 カウンターに戻ると、政子(まさこ)が返却処理をしながらこちらを見る。


「珍しいの持っていったわね」

「はい」

「備品でしょ、それ」


 政子はバーコードリーダーを鳴らす。ピッ、という音が響く。


「読めない本なんて、欲しがるかしら」

「今は、言葉がないほうがいいのかもしれません」


 栞は静かに答えた。

 政子は「そう」とだけ言って、次の本を手に取った。


 三十分後。

 栞が再び図鑑コーナーの近くを通ったとき、少年はまだそこにいた。

 植物図鑑はすでに閉じられ、床に置かれている。

 彼の膝の上に、見本帳。


 指先が、一枚の紙の表面をゆっくりとなぞっている。

 ざらざらした質感。ツルツルとした光沢。重く、冷たい手触り。

 一枚めくるごとに、彼の指は確実に、何かを確かめている。


 落ち着きのなかった指先は、止まることなく動いていた。


 しばらくして、少年は見本帳を栞の元へ持ってきた。

 鞄を肩にかける。出口へ向かう足取りに、先ほどまでの迷いはない。


 栞は見本帳を手に取った。

 指先で、紙の揃いを確かめる。

 ざらざらとした、確かな手触りがそこにある。


 それをカウンターの奥の定位置へ戻した。


お読みいただきありがとうございます!


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