第十話:夏の休日
アスファルトに、濃い影が落ちている。
視界の奥で、空気が小さく揺らいでいた。
蝉の鳴き声は、音というよりは、空気を震わせる熱そのもののようだ。
日傘は持っていない。大きなつばの麦わら帽子が、顔に濃い影を落としている。風通しの良い、麻のワンピース。サンダルの足音だけが、静かな休日の住宅街に吸い込まれていく。
古いビルの半地下にある喫茶店。
重い木の扉を開けると、ドアベルが低く鳴った。一歩踏み込むと、外の熱気が嘘のように断ち切られる。空調の冷えた空気と、長年染みついた珈琲の匂い。
店内には、他の客の姿はない。カウンターの奥で、白髪のマスターが静かにグラスを磨いている。
栞は窓際の席に座った。テーブルの上には、小さなメニュー表が少しだけ斜めに置かれている。栞はそれを直さない。
冷たい水と、氷の入った珈琲が運ばれてくる。
栞は鞄から文庫本を一冊取り出し、テーブルに置いた。だが、表紙を開くことはない。
グラスの表面に、水滴がつき始めている。
栞はそれをじっと見つめている。
水滴が重さに耐えきれず、一本の線となってグラスを滑り落ちる。コースターに染みが広がる。そのわずかな変化だけが、この空間で進んでいる時間だった。
窓の外の通りを、誰も歩いていない。陽光が白く反射し、世界から輪郭を奪っている。店内には、時計の秒針の音すら聞こえない。ただ、時折マスターが氷を砕く音が、小さく響く。
栞は珈琲を一口飲む。
氷が傾き、カラン、と高い音を立てた。
本は、まだ開かれていない。
読むためではなく、ただそこにある重さとして、テーブルの上に置かれている。
栞の指先が、グラスについた水滴をそっとなぞる。
冷たい感触が、指に残る。
一時間ほど経ってから、栞は席を立った。文庫本は、一度も開かれないまま鞄に戻される。代金を支払い、店を出る。
扉が開くと、再び強烈な熱と蝉の声が栞を包み込んだ。
空気が揺らいでいる。
栞は一度だけ目を閉じ、それから、またゆっくりと歩き出した。
足音は、すぐに蝉の鳴き声に掻き消された。
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