第十一話:綴じられていない小説
窓の外の光が、痛いほどに白い。
図書館の空調は絶え間なく稼働しているが、ガラス越しに伝わる熱が、窓際の空気を重くしている。
文学の棚の前に、タイトなサマーニットを着た女性が立っていた。
片手に小さなシステム手帳を開き、もう片方の手でペンを握っている。
棚から分厚い海外古典を抜き出す。表紙を確認し、手帳にチェックを入れる。
その動作は正確で、無駄がない。だが、本を手にしたときの喜悦のようなものは、微塵も感じられない。
彼女は三冊の古典文学を抱え、カウンターへやってきた。
どれも「死ぬまでに読むべき名作」として、必ず名が挙がる重厚な作品ばかりだ。
「……すみません」
バーコードを読み取る栞に、女性が声をかけた。
声には、微かな苛立ちと疲労が混ざっている。
「『失われた時を求めて』の第四巻がないんですが」
「現在、貸出中となっております」
「いつ戻りますか。三巻まで読んだので、次を読まないと予定が狂ってしまうんです」
女性は手帳のページを指先で強く叩いた。
そこには、びっしりと書かれた書名と、四角いチェックボックスが並んでいる。
半分ほどは黒く塗りつぶされているが、残りの空白が、彼女を急き立てているようだった。
「ご予約をなさいま……」
「待てません。間が空くと、読書のペースが落ちてしまう」
早口で栞の言葉を遮り、女性は時計を見つめた。
栞は女性の手帳を一度だけ見た。
それから、三冊の古典をカウンターの端に寄せる。
「少々お待ちください」
栞は奥の棚へ向かった。
戻ってきたその手には、本ではなく、一回り小さな紙の箱が握られていた。
「これは?」
女性が怪訝な顔をする。
栞は箱の蓋を開けた。
中には、バラバラの紙の束が入っている。背は綴じられておらず、一枚ずつが独立していた。
「綴じられていない小説です」
栞は静かに言った。
「ページ番号はありません。どこから読んでも、途中で順番を入れ替えても構いません」
「そんなの、お話が繋がらないじゃないですか」
「はい」
栞は頷く。
「一部のページを読まなくても構いません」
女性は息を呑み、箱の中の紙束を凝視する。
「……それでは、いつ読み終わったのか、分からないじゃないですか」
「箱の蓋を閉めたときです」
栞はそれだけを言い、箱を女性の方へ少しだけ押しやった。
女性はしばらく、箱の中のバラバラの紙束を見つめていた。
揃えられた端が、彼女のため息でわずかに揺れる。
やがて、彼女は手帳を閉じ、鞄の奥へしまった。
箱を見つめ、顔を上げ栞の目を見た。そして再び箱を見た。
「……これを、貸してください」
「かしこまりました」
栞は箱の側面に貼られたバーコードを読み取る。
短い電子音が鳴る。
女性は箱を大切そうに両手で抱え、出口へ向かった。
外の強烈な日差しの中に、彼女の背中が消えた。
栞はカウンターの端に残された、三冊の分厚い古典に手を伸ばす。
乱れのない動作で、それらを返却用のワゴンに収めた。
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