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第十二話:処方の行方

 夕方の風に、秋の気配が混じり始めていた。

 高く響いていた蝉の声はいつの間にか遠のき、代わりに空調の低い稼働音が、図書館の静けさを底から支えている。

 ブラインドを下ろした窓の隙間から、西日が書架の間に長く傾いた影を落としていた。


 新聞コーナーでは、老人がいつもの席で、ルーペ越しに夕刊の文字を追っている。

 乾いた紙をめくる音が、ゆっくりと等間隔に響く。


 自動ドアが開く微かな駆動音と共に、一人の男性が入ってきた。

 目的地のない旅行記を借り、その後「本を渡されなかった」あの男性だった。

 以前のように服が浮いた感じはなく、薄手のカーディガンを自然に着こなしている。

 足取りは軽く、迷いなく返却カウンターへ向かってきた。


 男性は申し訳なさそうに、一冊の本を差し出す。

 栞(しおり)はそれを受け取った。


『身近な苔の図鑑』


 それは、栞が一度も彼に勧めようと考えたことのない、実用書の棚の隅にある本だった。


「この間は、ありがとう」


 男性の声は、憑き物が落ちたように穏やかだった。


「渡せる本がないと言われて、肩の荷が下りた気がしてね。あの後、帰る途中でふと目に入ったのが、これだったんだ」


 栞はバーコードを読み取る。

 ピッ、という短い音が鳴る。

 画面に表示された返却期限は、ひと月以上も前の日付だった。

 栞は何も言わずに処理を終え、そのまま表紙を開いて中のページに傷みがないかを確認する。

 ビロードのような質感の苔や、小さな星のような形をした苔の写真が、栞の目の前を次々と通り過ぎていく。


「読んでみたら、これが存外に面白くて。ここ数週間は、庭の隅や近所の公園で、ずっとしゃがみ込んでいたよ」


 男性は少しだけ照れくさそうに笑い、片手で作った架空のルーペを覗き込むような仕草をした。


「小さなレンズ越しに見るとね、そこには全く別の森が広がっているんだ。湿った土の匂いとか、雨上がりの緑色の深さとか……」


 カウンターに置かれた男性の指先には、微かに土の汚れが入り込んでいるようにも見えた。


「今まで、遠くの目的地ばかりを探していたから、自分の足元にこんな世界があるなんて気づきもしなかった」


 栞は本を閉じ、返却台に置く。

 表紙には、鮮やかな緑色の苔が画面いっぱいに拡大されて写っている。


「そうですか」


 栞は短く答えた。


「今日は、また自分で探してみるよ」

「はい。ごゆっくり」


 男性は軽く頭を下げ、一般書の棚の奥へと消えていった。


 隣のカウンターで作業をしていた政子(まさこ)が、顔を上げずに言った。


「司書さんの、負けね」


 政子の手元では、返却された本が次々と手際よく積み上げられていく。

 栞は答えなかった。


 政子はそれ以上何も言わず、奥の作業場へ消えた。

 栞は返却された『身近な苔の図鑑』の表紙を、指先で一度だけなぞった。


 本を返却用のワゴンに乗せる。

 隣の棚へ手を伸ばし、背表紙を一列に揃えた。

 一度だけ小さく頷き、栞は静かにワゴンを押し出した。

お読みいただきありがとうございます!


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