幕間:政子の日常
朝五時半。
台所の換気扇が低く唸り始める。
政子は、まだ薄暗い居間を横切って冷蔵庫を開けた。昨夜のうちに解凍しておいた鮭を取り出し、グリルに並べる。炊飯器の蓋を開けると、湯気がふわりと上がった。
味噌汁は豆腐とわかめ。高校生の息子は、ねぎを入れると嫌な顔をする。
包丁の音を立てながら、政子は窓の外を見た。雨は降っていない。なら、自転車で行ける。
鮭を裏返し、弁当箱を二つ並べる。
一つは夫のもの。もう一つは自分用。
上の子はもう家を出ている。社会人になって二年目。連絡は来るが、帰ってくる回数は減った。
寂しい、というほどではない。
減ったな、と思うくらいだ。
「……あっつ」
鮭の油が跳ね、政子は小さく眉を寄せた。
そのころになって、二階で物音がする。息子が起きたのだろう。
「母さん、今日雨?」
「夕方だけみたい」
「じゃ傘いらんか」
「知らないわよ」
階段越しの会話は、それで終わる。政子は卵焼きを切り分けながら、小さく息を吐いた。
昔は、朝というだけで戦場みたいだった。熱を出しただの、プリントがないだの、牛乳こぼしただの。食べない、着替えない、間に合わない。
静かになったものだと思う。
鮭を詰め、ブロッコリーを入れ、弁当箱の蓋を閉める。
六時二十分。
夫が起きてくる。
「今日、夕飯いらない」
「飲み?」
「組合の」
「ふぅん」
政子はそれだけ返し、麦茶をコップに注いだ。
長年一緒に暮らしていると、会話は確認事項に近くなる。それを寂しいと思う時期も、昔はあった気がする。
今はもう、ちゃんと帰ってきて、ちゃんと寝て、健康診断を忘れなければ、それで十分だ。
夫は新聞を広げ、息子はスマホを見ながら朝食をかきこむ。
誰も特別なことを話さない。
でも、政子はこういう時間が嫌いではなかった。
八時前。
政子は自転車で坂を下っていた。春とも夏ともつかない風が、まとめた髪の後れ毛を揺らす。
途中のスーパーには、もう野菜が並び始めている。帰りに卵を買わないといけない。洗剤も切れそうだった。
信号待ちで止まり、ふと隣を見る。
制服姿の高校生たちが笑っていた。
息子も、外ではあんな顔をしているんだろうかと思う。家ではほとんど喋らないくせに。
青信号になり、政子はまたペダルを踏んだ。
図書館は、開館前がいちばん静かだ。
返却棚を整えながら、政子は本の背表紙を指で揃えていく。文庫、実用書、児童書。時々、本の間からしおりが落ちる。レシートだったり、子どものメモだったり、どこかの店のポイントカードだったり。
本は、読む人の生活を少しだけ連れて帰ってくる。
「政子さん」
振り返ると、栞がいた。
相変わらず、きれいに立つ子だと思う。背筋が伸びていて、声が静かで、少し痩せすぎて見える。
「この返却、先に戻しておきます」
「お願い」
政子はそれだけ言って、また棚へ視線を戻した。
少ししてから、ふと思い出したように付け足す。
「今日、顔色悪いわよ」
栞は何も言わなかった。
政子も返事を待たない。
利用者カードの整理に戻る。
答えたくない日は、誰にでもある。
帰宅は夕方六時前。
卵と洗剤を提げて玄関を開けると、まだ息子は帰っていなかった。
政子はエプロンをつけ、米を研ぐ。
今日は夫がいないから、簡単でいい。
冷蔵庫からキャベツを出しながら、ふと図書館で借りた本を思い出す。
昨日、閉館前に借りた短編集。まだ最初の一編しか読めていない。
昔みたいに、一晩で何冊も読むことはできない。途中で眠くなるし、洗濯物も気になる。
でも最近は、それでいいと思っていた。
少しずつ読めばいい。
急がなくても、本は逃げない。
鍋に火をつける。
台所の窓の外で、自転車のブレーキ音がした。
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