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第十三話:誰にも読まれなかった本

 休館日の図書館は、音の種類が違う。

 利用者のいない静けさではなく、建物そのものが息をしている静けさだ。空調だけが低く動き、光は窓から均等に差し込んでいる。


 栞(しおり)と政子(まさこ)は、午前中から作業を続けていた。

 返却漏れの確認、書架の点検、傷んだ本のリストアップ。

 そして、果てしなく続く蔵書点検のバーコード読み取り作業。

 ピッ、という乾いた電子音が、誰もいない館内に規則的に響いては消える。

 言葉は少ない。必要なことだけが、短く交わされる。


「これ、背が割れてる」

「控えておきます」


 政子が文庫を一冊、脇に置く。栞がリストに書き込む。その繰り返しだった。


 昼を過ぎて、廃棄候補のワゴンが半分ほど埋まった。

 ほとんどは傷みによるものだった。読まれすぎて、限界を迎えた本たちだ。

 小口は手垢で黒ずみ、ページは波打ち、糊が剥がれて糸が覗いている。それらは、図書館で全うな生を終えた証でもあった。


 栞は人文系の棚を担当していた。

 一冊ずつ取り出し、状態を確かめ、ハンディスキャナでバーコードを鳴らし、戻すか脇に置くかを判断する。

 ピッ。ピッ。ピッ。

 リズムは一定だ。


 その手が、一冊のところで止まった。


 薄い本だった。

 背表紙の色は褪せているが、ページに傷みはない。小口は驚くほど白く、手擦れの一つも見当たらない。

 貸出記録を確認する。


 一度も、貸し出されていなかった。


 受入日は十二年前。

 以来、この棚にあり続けた。

 他の本たちが何度も誰かの手に渡り、街へ出て、またこの棚へ戻ってくる間、この一冊だけが、一度も動くことなくここにいた。


 タイトルは『夜の終わりを歩く人へ』。


 著者名は知らない。出版社も、今はもう存在しないところだ。

 表紙には、遠い街灯の光だけが描かれている。


 栞はしばらく、その表紙を見ていた。

 開かない。


 政子が隣の棚から声をかける。


「どした?」

「貸出記録が、ありません」

「何年?」

「十二年です」


 少しの間があった。空調の音だけが間を埋める。


「廃棄ね」


 政子の声は、判断を迷っていなかった。

 ただ事実を確認するような、いつもの口調だった。


 栞は本をワゴンに置いた。

 他の本と同じように、静かに。


 作業は続いた。

 ピッ、という電子音が再び鳴り始める。

 窓の外では、風が枯れ葉を転がしていく音がした。


 夕方近く、廃棄候補のワゴンを整理しながら、栞はもう一度その本を手に取った。

 政子は奥の作業室にいる。


 栞は指先で、まだ誰の手にも馴染んでいない硬い表紙の縁をなぞる。

 そして、表紙を開いた。

 紙はまだ新刊の匂いがした。十二年前の空気が、そこに閉じ込められている。


 最初のページに、短い一文だけが書かれていた。


 ――眠れない夜に、この本を開いてくれた人へ。


 栞はページを閉じた。


 誰も、開かなかった。

 十二年間、誰も眠れない夜にこの棚へ来なかった。

 あるいは、来たけれど手が届かなかった。

 あるいは、手に取ったけれど戻した。


 分からない。


 栞はその本を、廃棄のワゴンから持ち上げた。

 そして、元の棚へと歩く。

 他の本と同じ高さに、静かに収める。

 背表紙の列に、また少し色褪せた一冊が紛れ込んだ。


 政子が戻ってきた。

 ワゴンを一度だけ見る。

 端に置かれたはずの本がないことに、視線が止まる。

 それから、栞の背中を見た。


 何も言わなかった。


 政子は、先に出口へ向かっている。

 振り返らない。


 栞は最後の照明を消した。

 暗くなった室内で、棚の輪郭だけが残っている。


 扉を閉める。


 外は、冷たい秋の空気だった。



 栞は鍵を回した。


お読みいただきありがとうございます!


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