第十四話:誰かが線を引いた本
九月の終わりの図書館は、まだ空調が動いている。
窓の外の光は傾き始めているが、空気の重さはまだ夏の名残を引きずっていた。
返却台に積まれた本の中に、夏休みの課題図書が何冊か混じっている。読まれた形跡のあるものと、ほとんど開かれていないものが、区別なく並んでいた。
一般書の棚の前に、大学生らしい女性が立っていた。
スマートフォンを片手に、棚の背表紙と画面を交互に見ている。
一冊抜き出す。画面を確認する。戻す。また別の一冊を抜き出す。
その動作が、十分ほど続いていた。
栞は棚の反対側から、背表紙の乱れを指先で整えながら、その様子を視界の端に置いていた。
女性の手が、また一冊を抜き出す。
画面を見る。眉が少しだけ寄る。本を戻す。
抜き出した本は、元の位置より少しだけ手前に戻される。棚の列が、わずかに乱れていく。
栞は棚の角を曲がり、女性の近くへ移動した。
「お探しのものはありますか」
女性は振り返り、少し驚いた顔をした。
スマートフォンの画面には、本のレビューサイトが開いていた。星の数と、短いコメントが並んでいる。
「あ、えっと……これ、読もうと思ってたんですけど」
女性が手にしていた文庫を、栞は受け取った。
タイトルを確認する。
「レビューがあんまり良くなくて。でも気になってて。どっちが正しいのか、なんか、分からなくて」
栞は文庫を一度だけ開いた。
ページの端に、赤いボールペンの線が引かれている。
一行だけではなく、数ページにわたって。
前の利用者が引いたものだった。
栞はそのページを女性に見せた。
「これ、誰かが書き込んでるじゃないですか」
「返却時に気づかなかったようです。申し訳ありません」
栞は言った。
「よろしければ、こちらをどうぞ」
同じ本の、別の一冊を棚から抜き出す。
書き込みのない、きれいな一冊だった。
女性はそれを受け取り、少し考えてから口を開く。
「さっきの、書き込みのあるほうでもいいですか」
栞は女性を見た。
「誰かが線を引いたところが、どこなのか、見てみたくて」
栞は書き込みのある文庫を女性に渡した。
それ以上は何も言わない。
女性はその場でページをめくり始めた。
最初の数ページは、赤い線がない。
女性の指が進む。
線が現れたのは、三十ページあたりだった。
一文だけに引かれた、細い赤い線。
女性はそこで指を止め、その一文を目で追う。
次の線は、五十ページ手前。
また別の一文。文の途中から終わりまで。
女性はページをめくるたびに、少しだけ速度が落ちていく。
線を探しているのか、文を読んでいるのか、区別がつかなくなっていく。
「……ここに線引くんだ」
独り言のような声だった。
それから、また別のページをめくる。
「ここは引かないんだ」
今度は、線のないページで指が止まっていた。
誰かが線を引かなかった場所を、女性は自分の目で読んでいる。
女性は本を閉じ、貸出カウンターへ向かった。
書き込みのある一冊を、両手で抱えている。
栞は女性が立ち去ったあとの棚を見た。
きれいな一冊が、一冊だけ残っている。
手に取り、ページを開く。
何も書かれていない余白が、静かに広がっている。
どちらが読まれるべき本だったのか、栞には分からない。
栞はその本を棚に戻した。
背表紙を一列、指先で整えた。
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