第十五話:返せない言葉
十月の図書館は、空調が暖房に切り替わる前の、中途半端な温度をしている。
窓の外では、街路樹の葉が少しずつ色を変え始めていた。
返却台に積まれた本の中に、薄手のコートを着た利用者が返していったらしい文庫が混じっている。季節が、少しずつ動いていた。
ソファーコーナーに、見覚えのある男性が座っていた。
七十代に差し掛かるくらいだろうか。背筋は伸びているが、膝の上で組んだ手が、どこにも行き場を見つけられていないように見える。
テーブルの上には何も置かれていない。本も、鞄も。
三週間前も、同じ場所に同じ姿勢で座っていた。
そのとき栞は声をかけた。男性は少し驚き、何かを言おうとして、言葉が途中で止まった。
「古い友人が、その……」
それだけだった。
栞はそれ以上聞かなかった。男性はしばらくして、何も借りずに帰っていった。
今日で三度目だった。
栞は返却本をワゴンに積みながら、男性の様子を視界の端に置いていた。
男性の視線は、宙のどこかを漂っている。棚でもなく、窓でもなく、ただどこかに向いている。
組んだ手の指が、時折わずかに動く。何かを書くような、あるいは何かを探るような動きだった。
栞はワゴンを押して、ソファーコーナーの近くを通った。
男性が顔を上げる。
「また、来てしまいました」
男性のほうから、声をかけてきた。
照れくさそうな、それでいて少し疲れたような笑いが、口元に浮かぶ。
「ごゆっくりどうぞ」
栞は言った。
それから、少しの間があった。
男性は何かを続けようとして、また言葉が止まった。
「少々お待ちください」
栞はワゴンを置き、書架の奥へ向かった。
参考図書の棚の、少し奥まった場所に、それはあった。
大判で、重みのある一冊。
表紙には、古い筆跡で書かれた文字の写真が使われている。
栞はそれを手に取り、ソファーコーナーへ戻った。
「世界中の人々が書いた手紙を集めた本です」
テーブルの上に置く。
「ラブレターもありますが、そうでないものも混ざっています。届いたものも、届かなかったものも」
男性はテーブルの上の本を見つめた。
手を伸ばすまでに、少し時間がかかった。
表紙を、確かめるように触れる。
「届かなかったものも、残っているんですか」
「はい」
栞は答えた。それ以上は言わない。
男性はゆっくりと本を開いた。
古い言葉で書かれた手紙が、丁寧な翻訳とともに収められている。
ページをめくる速度は遅い。
ある一通の前で、男性の手が止まった。
どんな言葉に止まったのかは、栞からは見えない。
しばらくして、男性は本を閉じた。
立ち上がり、本を両手で持つ。
「借りていってもいいですか」
「もちろんです」
貸出カウンターで手続きをする。
ピッ、という短い音が鳴る。
「返却は二週間後です」
男性は頷き、本を鞄にしまった。
出口へ向かう足取りは、来たときより少しだけゆっくりだった。
急いでいないのか、あるいは急ぐ必要を忘れたのか、栞には分からない。
自動ドアが開き、外の光が差し込む。
街路樹の葉が、風に揺れている。
栞は男性が使っていたソファーを見た。
座面に、わずかな跡が残っている。
しばらくして、その跡は元に戻った。
栞は次の返却本を手に取った。
ページの間を開く。
何も挟まっていない。
そのまま閉じた。
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