第八話:立ち止まる指先
本格的な夏が来る前の、重い沈黙が図書館を支配していた。
窓の外では、まだ頼りない蝉の声が、湿った空気の中に溶けては消えている。
栞はカウンターで、返却期限の過ぎた本をリスト化していた。
自動ドアが開き、一人の男性が入ってきた。
目的地のない旅行記を借りていった、あの男性だった。
背筋は伸びているが、以前よりもどこか、服が体に馴染んでいないように見える。
彼は迷わず返却カウンターへ向かい、一冊の本を差し出した。
栞が渡した、あの薄い文庫本だった。
「……すみません。これ、あまりよく分からなくて」
男性の声は、前回よりも少しだけ所在なげに響いた。
「言われた通り、どこから読んでもいいと思ってみたんだが、結局、どこへ向かえばいいのかが気になってしまってね」
栞は本を受け取った。
表紙はきれいで、ページをめくった跡もほとんどない。
「そうですか」
バーコードを読み取る。ピッ、という音が短く鳴る。
男性はそのまま立っている。
「……次は、もう少し、はっきりしたものを読んだほうがいいんだろうか」
栞は視線を上げる。
それから、棚の方へ歩き出した。
男性がついてくる。
実用書の棚、伝記の棚、歴史の棚。
指先が背表紙をなぞる。
いつもなら、どこかで止まる。
今日は止まらない。
手が、棚の前で止まる。
指先が宙に残る。
そのまま、下ろされる。
少し離れた場所で、政子が一度だけこちらを見る。
すぐに作業へ戻る。
「……司書さん?」
栞は振り返る。
「申し訳ありません」
静かに、深く頭を下げた。
「今日は、お渡しできる本がありません」
男性は言葉を探すように、口を開きかけて閉じる。
「……そうか」
小さく言って、息を吐いた。
「また、来ます」
それだけ残し、出口へ向かう。
鞄は軽いままだ。
新聞コーナーのいつもの席にいた老人が、ゆっくりと立ち上がった。
カウンターの横を通り過ぎる際、栞へ向かって一言だけ残す。
「今日も、静かでしたね。それでは、また明日」
栞は軽く会釈だけを返す。老人はそれ以上何も求めず、出口へ向かった。
政子がカウンターに戻ってくる。
「珍しいわね」
栞は答えない。
政子は別の本を手に取り、奥へ消える。
栞は空になった手を見る。
そのまま、下ろす。
隣の棚に手を伸ばす。
外では、雨が降り始めていた。
雨粒の音が、静かに続いている。
背表紙を一列、指先で整えた。
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