第七話:今から一番遠い場所
梅雨の晴れ間の図書館は、湿気だけが残っている。空調が低く唸り、乾いた空気を送り続けている。
栞は新聞コーナーの整理をしていた。
一般書の棚の前に、大学生らしい男性が陣取っている。テーブルの上に、本が積み上がっていた。ビジネス誌、経済新聞のバックナンバー、就職活動の指南書。それらが几帳面に並べられ、男性はその一冊を開いては閉じ、また次を開く。
ノートには何も書かれていない。
ペンは一度も動いていない。
栞は棚の端から、その様子を視界の端に置く。
男性の手が止まった。積み上げた本の背表紙を、順番に指でなぞっている。確認するように。あるいは、何かを探すように。
しばらくして、男性は立ち上がった。本を抱えたまま、別の棚へ移動する。今度はビジネス書の棚の前で立ち止まる。新しい一冊を抜き出す。パラパラとめくる。戻す。また別の一冊を抜き出す。
その動作が、三度繰り返された。
栞は整理の手を止めず、男性の隣の棚へ移動する。
「お探しのものはありますか」
男性は振り返った。目の下にうっすらと隈がある。
「あ、いえ……就活のこと調べてて。でも、なんか、読んでも読んでも、足りない気がして」
声は低く、少し乾いていた。
「情報が、追いつかないというか。昨日読んだことが、もう古くなってる感じがして」
栞は男性が抱えた本の背表紙を一度だけ見た。
それから、男性の隣の棚ではなく、少し離れた参考図書のコーナーへ向かう。男性は少し遅れて、ついてくる。
栞は棚の下段から、一冊の大判の本を取り出した。表紙は色褪せ、図版が印刷されている。開くと、見慣れない文字の羅列と、丁寧な注釈が並んでいた。
「これは?」
「絶滅した言語の辞書です」
栞は本を男性に差し出した。
「もう誰も話さない言葉が、ここに収められています」
男性は戸惑いながらも、受け取る。ページをめくる手が、少しだけ遅くなる。
「就活には、全く関係ありません」
栞はそれだけ言った。
男性はしばらく、見慣れない文字を眺めていた。何と読むのか、何を意味するのか、手がかりがない。ただ、誰かがそれを書き留めた痕跡だけがある。
「……誰が、こんなの作ったんですかね」
独り言のような声だった。
栞は答えない。
男性はもう一度ページをめくる。ノートのページは、まだ白いままだ。
でも、ペンを持つ手が、わずかに揺れた。
「借りられますか」
「参考図書ですので、館内でのご利用になります」
男性は頷き、テーブルへ戻った。積み上げたビジネス誌の隣に、辞書を置く。厚みが、全然違う。
栞は新聞コーナーへ戻る。整理の続きをする。
しばらくして、男性のテーブルを通り過ぎた。
ビジネス誌は端に寄せられていた。辞書だけが、テーブルの中央にある。ノートに、何かが書かれていた。文字かどうかも、遠くからでは分からない。
栞は確認しない。そのまま通り過ぎた。
閉館前、男性は辞書を棚に戻した。丁寧に、元の位置へ。
出口へ向かう足取りが、来たときよりも少しだけ遅い。
自動ドアが開き、外の光が差し込む。湿った空気が、一瞬だけ室内に入ってくる。閉まると、元に戻る。
栞は辞書が戻された棚を、一度だけ見た。
それから、背表紙を一列、指先で整えた。
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