第六話:春の休日
春の朝は、少しだけ早く明るくなる。
図書館が開く前の街を、栞は歩いていた。
目的地はない。あるいは、どこも目的地ではないまま、歩幅だけが一定だった。
駅前のベンチに、一度だけ座る。
鞄は膝の横に置かれたまま、開かれない。
通り過ぎる人の足音が、いくつか重なって消えていく。
栞はそれを見ているわけでもなく、見ていないわけでもない。
十分ほど経ってから、立ち上がる。
ベンチの位置は変わらないが、そこにいた時間だけが移動したように見える。
駅前の書店に入る。
入口近くの新刊棚を一度だけ視線でなぞる。手は触れない。
一冊の文庫が、棚の端で少しだけ傾いている。
栞はそれを直さない。
そのままレジ前を通り過ぎ、店を出る。
図書館へ戻る途中、公園の前で足が止まる。
ブランコが揺れている。
誰もいないのに、というより、誰かがいた形だけが残っているように揺れている。
栞は数秒だけそれを見る。
それから、視線を外す。
昼前の図書館はまだ開いていない。
入口のガラスに、外の街が薄く重なっている。
栞は鍵を開ける。
中に入ると、静けさは外よりも濃くなる。
カウンターに鞄を置く。
中身は確認されないまま、そこにある。
机の上に、一冊の本が置かれている。
昨日の閉館後にはなかったものだ。
栞はそれを手に取る。
見覚えのない返却票。
見覚えのない文字。
ただ、その紙の端に小さな折れ目がある。
しばらくの間、表紙だけを見ている。
窓の外では、春の光が少しだけ強くなっている。
栞は棚の整理に戻る。
いつものように、背表紙の位置を揃える。
その並びに、わずかな乱れがある。
誰が触れたのかは、分からない。
栞はそこに手を入れ、ただ整える。
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