第五話:宛先のないしおり
午前の図書館は、まだ音が揃っていない。開館直後の棚には、人の手が入る前の静けさが残っている。背表紙の列は整っているが、それが誰の仕事なのかは曖昧なままだ。
栞は返却台の本を一冊ずつ確認していた。バーコードを読み取り、状態を確かめ、所定の棚へ戻す。その動作に迷いはない。
横で、政子が同じように本を捌いている。手つきは速く、確認は最小限だ。栞とは少し違う速度で、同じ作業が進んでいく。
「これ、見て」
政子が一冊の文庫を軽く持ち上げた。
栞は手を止めないまま、視線だけを向ける。
ページの間に、細い紙片が挟まっている。しおりではない。切り取られたメモ用紙のようだった。
政子がそれを抜き取る。
「こういうの、たまにあるけどさ」
軽く折り目のついた紙を広げる。
そこには、短い文章が書かれていた。
――ありがとうございました。
それだけだった。宛名も、日付もない。誰に向けたものかも分からない。
政子は一度だけ眉を上げ、それから紙を裏返す。
裏には何も書かれていない。
「落とし物扱いかな」
そう言いながら、カウンター脇の小さなトレーに置こうとして、手を止める。
「……でも、これ、この本の中に入ってたんだよね」
政子が持っている本の表紙には、特に目立つ特徴はない。貸出履歴を見なければ、誰が読んだのかも分からない。
栞はその本を受け取った。
ページの間を一度だけ開く。メモが挟まっていた位置に、わずかな癖が残っている。
それ以上は見ない。
「どうする?」
政子が訊く。
栞は答えず、本を閉じた。しばらくの間、そのまま持っている。それから、メモを元の位置に、ページの間に、そっと差し込む。
「……戻すんだ」
政子の声は小さい。
栞は頷かない。否定もしない。
ただ、本を返却台の端に置いた。
昼過ぎ、同じ本はまだそこにあった。
他の本はすでに棚へ戻されている。
貸出処理を待つものも、数冊だけになっている。
その一冊だけが、少しだけ位置を変えて残っている。
政子がそれを見つけた。
「……さっきの」
手に取る。
ページを開く前に、一度だけ栞の方を見る。
栞は別の棚の整理をしている。
こちらを見てはいない。
政子は本を開かない。
そのまま、しばらく持っている。
それから、何もせずに元の場所へ戻した。
夕方、利用者が一人、その本を手に取った。
中年の女性だった。
特に迷う様子もなく、自然な動作で棚から抜き出した。
ページをめくる。
途中で、指が止まる。
挟まれていた紙片に気づいたようだった。
女性はそれを取り出す。
読んだのかどうかは、少し離れた位置からは分からない。
ただ、紙を一度だけ折り直し、元の場所へ戻した。
本も閉じる。
しばらくして、その本は貸出カウンターに置かれた。
「お願いします」
女性はそう言った。
栞がバーコードを読み取る。
ピッ、という短い音が鳴る。
返却期限を告げる。
女性は頷き、本を鞄に入れる。
メモのことには触れない。
閉館後、返却台には何も残っていなかった。
政子がカウンターを拭きながら、ふと思い出したように言う。
「さっきの本、借りていったね」
栞は答えない。
「メモ、あのままでいいのかな」
政子は手を止めずに言う。布がテーブルの上を往復する。
栞は返却された別の本を手に取る。ページの間を開く。
何も挟まっていない。
そのまま閉じる。
照明が一つ、また一つと落ちていく。
栞はカウンターの端に残っていたメモ用紙を手に取った。
ペンが走る。
折り畳み、鞄に入れた。
最後に残った明かりの中で、棚の背表紙が一列に並んでいる。
少しの間をおいて、栞は手を止めた。
お読みいただきありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下部にある【ブックマーク登録】や【いいね】、ページ下部の【★★★★★】評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回もよろしくお願いします。




