↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/26

第五話:宛先のないしおり

 午前の図書館は、まだ音が揃っていない。開館直後の棚には、人の手が入る前の静けさが残っている。背表紙の列は整っているが、それが誰の仕事なのかは曖昧なままだ。


 栞(しおり)は返却台の本を一冊ずつ確認していた。バーコードを読み取り、状態を確かめ、所定の棚へ戻す。その動作に迷いはない。

 横で、政子(まさこ)が同じように本を捌いている。手つきは速く、確認は最小限だ。栞とは少し違う速度で、同じ作業が進んでいく。


「これ、見て」


 政子が一冊の文庫を軽く持ち上げた。

 栞は手を止めないまま、視線だけを向ける。

 ページの間に、細い紙片が挟まっている。しおりではない。切り取られたメモ用紙のようだった。

 政子がそれを抜き取る。


「こういうの、たまにあるけどさ」


 軽く折り目のついた紙を広げる。

 そこには、短い文章が書かれていた。


 ――ありがとうございました。


 それだけだった。宛名も、日付もない。誰に向けたものかも分からない。


 政子は一度だけ眉を上げ、それから紙を裏返す。

 裏には何も書かれていない。


「落とし物扱いかな」


 そう言いながら、カウンター脇の小さなトレーに置こうとして、手を止める。


「……でも、これ、この本の中に入ってたんだよね」


 政子が持っている本の表紙には、特に目立つ特徴はない。貸出履歴を見なければ、誰が読んだのかも分からない。


 栞はその本を受け取った。

 ページの間を一度だけ開く。メモが挟まっていた位置に、わずかな癖が残っている。

 それ以上は見ない。


「どうする?」


 政子が訊く。

 栞は答えず、本を閉じた。しばらくの間、そのまま持っている。それから、メモを元の位置に、ページの間に、そっと差し込む。


「……戻すんだ」


 政子の声は小さい。

 栞は頷かない。否定もしない。

 ただ、本を返却台の端に置いた。


 昼過ぎ、同じ本はまだそこにあった。

 他の本はすでに棚へ戻されている。

 貸出処理を待つものも、数冊だけになっている。

 その一冊だけが、少しだけ位置を変えて残っている。


 政子がそれを見つけた。


「……さっきの」


 手に取る。

 ページを開く前に、一度だけ栞の方を見る。

 栞は別の棚の整理をしている。

 こちらを見てはいない。


 政子は本を開かない。

 そのまま、しばらく持っている。

 それから、何もせずに元の場所へ戻した。


 夕方、利用者が一人、その本を手に取った。

 中年の女性だった。

 特に迷う様子もなく、自然な動作で棚から抜き出した。


 ページをめくる。

 途中で、指が止まる。

 挟まれていた紙片に気づいたようだった。


 女性はそれを取り出す。

 読んだのかどうかは、少し離れた位置からは分からない。

 ただ、紙を一度だけ折り直し、元の場所へ戻した。

 本も閉じる。


 しばらくして、その本は貸出カウンターに置かれた。


「お願いします」


 女性はそう言った。

 栞がバーコードを読み取る。

 ピッ、という短い音が鳴る。

 返却期限を告げる。

 女性は頷き、本を鞄に入れる。

 メモのことには触れない。


 閉館後、返却台には何も残っていなかった。

 政子がカウンターを拭きながら、ふと思い出したように言う。


「さっきの本、借りていったね」


 栞は答えない。


「メモ、あのままでいいのかな」


 政子は手を止めずに言う。布がテーブルの上を往復する。

 栞は返却された別の本を手に取る。ページの間を開く。

 何も挟まっていない。

 そのまま閉じる。


 照明が一つ、また一つと落ちていく。


 栞はカウンターの端に残っていたメモ用紙を手に取った。

 ペンが走る。

 折り畳み、鞄に入れた。


 最後に残った明かりの中で、棚の背表紙が一列に並んでいる。


 少しの間をおいて、栞は手を止めた。

お読みいただきありがとうございます!


少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

下部にある【ブックマーク登録】や【いいね】、ページ下部の【★★★★★】評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!


次回もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。