第三話:散歩する本
西日の差し込む図書館は、埃が光の粒になって踊っている。
午後の空気は弛緩し、新聞をめくる音だけが、等間隔に時を刻んでいる。
栞は、一般書の棚を巡回していた。
一人の男性が、実用書の棚の前を行き来している。
磨き上げられた靴が、床のタイルを規則的に叩く。彼は何度も腕時計を確認し、それからまた背表紙の列に視線を戻した。
男性の手は、ビジネス書の棚、資格試験の棚、そして自己啓発の棚へと伸び、そのたびに力なく下ろされた。
彼が立っている場所だけ、空気の密度が違うように見えた。
栞は少し離れた位置で、乱れた背表紙を指先で整える。
男性の足音が止まった。
彼は旅行記の棚の前で立ち尽くしている。
「何か、お探しですか」
栞が声をかけると、男性は少し困ったように眉を寄せた。
シャツの襟元には、最近までネクタイがあったことを示すような折り目が残っている。
「……役に立つ本を、探していたんだが」
男性の声は低く、乾いていた。
「どうにも、どれを選んでいいか分からなくてね。昨日までは、次に読むべき本はいつも決まっていたんだが」
栞は男性の視線の先にある棚を眺めた。
そこには、世界各地の地図や、豪華な写真集が並んでいる。
栞は棚の隅から、一冊の薄い文庫本を手に取った。
表紙は色褪せ、異国の路地裏を歩く猫の影だけが描かれている。
「これ、読んでみますか」
男性は差し出された本を、検品するかのような手つきで受け取った。
「これは、何の役に立つのかね。仕事のヒントにでもなるのか?」
「いえ。特に何も起きません。ただ、誰かがどこかを歩いているだけの本です」
栞は本の内容には踏み込まず、ただ事実を口にした。
「目次もありません。どこで読み始めても、どこで読み終わっても、状況は変わりません」
男性は怪訝そうにページをめくった。
そこには、名前も知らない町で、名前も知らない筆者が、ただ歩き、食事をし、眠る様子が淡々と記されていた。
「……目的地が、どこにも書いていないな」
「そうですね」
栞は頷いた。
「ただ、歩いているだけです」
男性はしばらくその本を見つめていた。
それから、また腕時計を見た。
今度は、時間を確認するためではなく、ただ手首を動かすための動作のように見えた。
「目的地がないというのは……少し、落ち着かないな」
「そうですか」
栞はそれ以上何も言わず、一歩引いて、別の棚の整理を始めた。
しばらくして、男性が貸出カウンターへ向かうのが見えた。
彼の歩幅は、先ほどよりもわずかに広がっているように見えたが、それが本のせいかどうかは分からない。
栞は彼が去ったあとの棚に、少しだけ開いた隙間を見つけた。
そこには、彼が最後まで握りしめていた実用書が、場違いな位置に一冊だけ残されていた。
栞はその本を手に取り、本来あるべき「役に立つ本」の棚へと運んでいく。
図書館の静寂の中で、栞の足音だけが小さく響いた。
栞はその本を所定の位置に収め、隣に並ぶ背表紙を一列、指先で整えた。
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