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第二話:あらすじのない絵本

 雨の日の図書館は、湿った匂いがする。

 外の音を厚い壁が遮り、紙の匂いがいつもより濃く、沈殿している。


 栞(しおり)は、児童書のコーナーに近い展示棚の整理をしていた。

 返却ワゴンの中に、昨日あの少女が返していった難解な純文学が混ざっている。

 表紙の端がわずかに反り、指の跡が残っている。


 ふと、背後に気配を感じた。

 振り返ると、昨日の少女が立っていた。

 紺色のカーディガン。きっちりと切り揃えられた前髪。手には塾のカバンを提げている。


 彼女は児童書の棚を通り過ぎ、一般書の、思想や哲学が並ぶ一角へ向かった。

 背表紙の文字を一つずつ指で追う。その動きは遅く、迷いがあった。

 少女が一冊の分厚い本に手をかける。背表紙には『現代思想の源流』とあった。


 栞はワゴンを押し、静かにその隣の棚へ近づく。

 少女が本を引き抜こうとしたとき、栞は声をかけた。


「それは、少し難しいかもしれません」


 少女の手が止まる。

 振り返った彼女の目は、少しだけ赤かった。

 手元の本を握りしめる指が、微かに震えている。


「……読まなきゃいけないんです。賢い子になれるって、お母さんが」


 栞は少女の目を見つめ、頷きも否定もしなかった。

 ただワゴンから一冊の本を手に取る。

 一般書の棚ではなく、児童書の、それも一番下の段に置いてあった大型の絵本だ。


「これ、見てみますか。あらすじはありません。ただ、絵だけが並んでいる本です」


 少女は戸惑いながらも、差し出された絵本に指を触れた。

 表紙には、どこまでも続く青い砂漠と、空に浮かぶ魚が描かれている。


「こんなの、子供が読むものじゃ……」

「そうかもしれません」


 栞はそれだけ答えた。


「ただ、どこから開いてもいいし、どこで閉じてもいい。言葉がないので、読むのにも時間はかかりません」


 少女は恐る恐る、絵本のページをめくった。

 文字は、一文字もなかった。

 ただ、色彩が重なり、奇妙な風景が静かに広がっている。


 ページをめくる指が止まる。

 少女が持っていた『現代思想の源流』が、ゆっくりとワゴンに戻された。


「……あ」


 少女の唇から、小さく息が漏れた。

 彼女が何を見たのか、栞は見に行かない。覗きもしない。

 ただ、ワゴンの上の整理を続ける。


「貸出なら、あちらのカウンターで」


 少女は絵本を抱え、カウンターへと歩き出した。

 塾のカバンが、足首に当たって小さく音を立てる。


 栞は少女が立ち去ったあとの棚を眺めた。

 少女が戻した本と、彼女が借りていった絵本。

 その間に流れた時間の正体は、栞にも分からない。


 雨音が、静かに図書館を包み込んでいる。


 栞は返却本の最後の一冊を棚に収めた。



お読みいただきありがとうございます!


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