第一話:しおりの位置
昼下がりの図書館は、音が薄い。
紙が擦れる気配と、遠くでページがめくられる規則的なリズムだけが、空気を保っている。
栞はカウンターの奥で、返却された本の角を揃えていた。
タイトルを確かめ、背表紙の摩耗を指でなぞり、所定の位置へ戻す。その反復は、考えごとをするにはちょうどいい速度だ。
児童書の棚の向こうで、小さな笑い声が弾けた。すぐに抑えられる。
注意はしない。この時間帯のその程度の音は、むしろ図書館が生きている証拠だ。
やや離れた一般書の棚で、二人の声が低く重なっている。
視線を向けるほどではないが、断片は届く。
「最近さ、なんかずっと見ちゃうんだよね。スマホ」
「仕事中も?」
「いや、それはさすがに。でも帰ってから。気づくと二時間とか」
栞は背表紙を一列、整え直す。
会話は、どこにでもある形をしている。
「別に、困ってるわけじゃないんだけど」
「じゃあいいじゃん」
「うーん……でも、なんか、終わったあとに“何もしてない感”がすごい」
『困ってるわけじゃない』その前置きのあとに続く言葉は、たいてい困っている。
栞は返却台の上に置かれた薄い文庫を一冊、手に取った。
しおり紐が、きれいに折り目を保っている。途中まで読まれて、きちんと閉じられた形だ。
棚の間から、ふたりの姿が少し見えた。
立ったまま話している。片方は本を持たず、もう片方は背表紙を眺めるふりをしている。
「やめたいの?」
「やめたいっていうか……減らしたい?」
「じゃあ減らせば」
「それができないから言ってるんだけど」
軽い笑い。
その軽さは、どこかで自分に向けられている。
栞は一度だけ息を整え、カウンターから出た。
足音を立てない歩き方は、ここでは特別な技能ではない。
近づきすぎない距離で立ち止まり、二人の会話が途切れたところで、声をかける。
「すみません」
振り返ったのは、スマートフォンを手にしていないほうだった。
もう一人は、反射的にポケットを押さえる。
「ご利用中、失礼します。もしよろしければ、一冊ご案内してもいいですか」
唐突ではあるが、押しつける調子ではない。
栞の声は、棚と棚のあいだに収まる大きさに調整されている。
「え、あ、はい……?」
戸惑いはあるが、拒否ではない。
栞は手にしていた文庫を差し出す。
装丁は地味で、題名は強く主張しない。
「これ、短い章がいくつか並んでいる本です。途中でやめても、次にどこからでも読めます」
説明はそれだけだった。
『スマホをやめるための本』とは言わないし、効能も語らない。
受け取った側は、タイトルを一度読み、裏表紙に目を落とす。
あらすじは、日常の断片がいくつか並ぶだけのものだ。
「……途中でやめてもいい、っていうのは、なんか、いいですね」
ぽつりと出た言葉に、もう一人が小さく頷く。
「読書って、続けなきゃいけない感じあるもんね」
栞は頷かない。否定もしない。
ただ一歩だけ距離を戻す。
「ご自由にどうぞ。合わなければ、戻していただいて構いません」
それだけ告げて、来たときと同じ静けさでカウンターへ戻る。
背後で、ページが一枚めくられる音がした気がした。
それが本の音か、記憶の補正かは分からない。
しばらくして、貸出カウンターにその文庫が置かれた。
利用カードと一緒に差し出される。
「お願いします」
栞はバーコードを読み取る。
ピッという短い音が、手続きの完了を告げる。
「返却は二週間後です」
「はい」
相手は本をバッグに入れかけて、少しだけためらい、すぐ取り出して表紙を見直す。
その仕草を、栞は記録しない。観察もしない。ただ視界の端に置く。
ふたりは並んで出口へ向かった。
さっきよりも会話は少ないが、途切れているわけでもない。
自動ドアが開き、外の光が差し込む。
その一瞬、室内の静けさが、わずかに形を変える。
閉まると、元に戻る。
栞は次の返却本を手に取る。
ページの間に挟まれた、細い紙片に気づいた。
しおりだ。
どこからでも読める本にも、しおりは挟まれる。
それは、続きがあるという合図でもあり、途中でやめていいという印でもある。
効いたかどうかは、分からない。
ただ、あの本は、途中で閉じても、どこからでもまた開ける。
それだけで十分なこともある。
返却された本のしおりの位置を確かめる。
少しの間をおいて、本を閉じた。
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