第二十四話:初めて読まれた本
三月の最初の週、図書館の空気はまだ冬の名残を持っていた。しかし、午後の光の角度が少しだけ変わっていた。窓から差し込む光が、棚の間を長く伸びている。春が、まだ遠慮がちにそこにいた。
閉館間際、利用者が一人また一人と出口へ向かっていった。
いつもの席の老人が、新聞を折りたたんだ。毎回同じ動作、毎回同じ順番でコートを着る。カウンターの前を通り過ぎる。
「春めいてきましたね。また来ます」
それだけ言って、自動ドアの向こうへ消えた。
栞は返却台の整理をしていた。答えなかった。
しばらくして、政子が返却台を拭きながら、独り言のように言った。
「結局、誰も借りなかったね」
布がテーブルの上を往復する。
「あの本」
政子はそれだけ付け加えた。
栞は答えなかった。手元の本を、ワゴンに積み続けた。
しばらくして、政子はエプロンを外した。鞄を手に取り、栞のほうを一度だけ見た。
「お先に」
「はい」
自動ドアが開き、冷たい空気が一瞬だけ流れ込んだ。閉まると、館内には栞だけが残った。
閉館作業を続ける。照明を一つ、また一つと落としていく。棚の輪郭が、薄暗さの中に沈んでいく。
最後の照明を落とす前に、栞は手を止めた。
人文系の棚へ向かう。暗い中でも、その場所は分かった。何度も背表紙を整えてきた棚だ。
一冊の本を手に取った。『夜の終わりを歩く人へ』。
表紙を、一度だけ見た。
カウンターへ戻る。
最後の照明を落とした。
棚の輪郭だけが、薄く残っている。
窓の外の街灯の光が、ガラスを通して細く差し込んでいた。
栞はカウンターの前に立った。
モニターの電源を入れる。
青白い光が、栞の顔を照らした。
本のバーコードをスキャンする。
ピッ。
音が、暗い館内に一度だけ響いた。
モニターに、貸出情報が表示される。
モニターの明かりの中で、最初のページの言葉を小さく声に出して読んだ。
「眠れない夜に、この本を開いてくれた人へ」
栞は本を鞄に入れた。
モニターの電源を落とす。
栞は暗い館内を歩き、扉へ向かった。鍵を回す音が、静寂に響く。
外へ出ると、三月の夜気が頬に触れた。冬より少しだけ、やわらかかった。栞は鞄を肩にかけ直した。鞄の中に、十二年間誰にも読まれなかった本がある。
栞は歩き出した。
足音が、夜の静けさに溶けていった。
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