第二十二話:贈る言葉の代わりに
一月の図書館は、年末の賑わいが嘘のように静かだった。
暖房の音だけが低く続いている。
利用者の少ない午前中、棚の間に人の気配はほとんどない。
栞は入口近くの展示棚を片付けていた。
年末に設置した「贈る本」コーナーの解体作業だ。
一冊ずつ手に取り、タイトルを確かめ、元の棚へ戻していく。
自動ドアが開いた。
五十代の男性が入ってくる。
きちんとしたコートを着ているが、どこか所在なげな様子だった。
入口付近で少し立ち止まり、館内を見回す。
それから、展示棚の近くへ来た。
解体中のコーナーを一度だけ見て、栞に目を向けた。
「あの……」
男性は声をかけた。
少し躊躇うような間があった。
「本を、贈りたいんですが。どんな本が良いか、相談できますか」
「はい」
栞は手を止めた。
「どんな方ですか」
「娘です」
男性は少し考えてから、続けた。
「三十代で、ものを書く仕事をしています。最近、少し、行き詰まっているようで」
「どのくらい、行き詰まっていますか」
「もう半年以上になります」
男性は視線を床に落とした。
「家にこもって、何かを書こうとしている。でも書けない。そういう日が続いているようで。食事も、あまり……」
言葉が途中で止まった。
「声をかけてやりたいんですが、なかなか、うまく言葉が出なくて。手紙を書こうとも思ったんですが、それも、どうも照れくさくて」
男性は苦笑いのような表情をした。
「年末にここを通りがかったとき、このコーナーを見て。本なら、渡せるかもしれないと思って」
栞は男性の言葉を聞きながら、館内の棚へ視線を向けた。
「その方は今、どんな時間を過ごしていますか」
男性は少し驚いたような顔をした。
「どんな、と言いますと」
「書けない日の、過ごし方です」
男性はしばらく考えた。
「図書館に来ているようです。何かを探しているのか、ただいるだけなのか、よく分からないんですが」
栞は何も言わなかった。
少しの間だけ、そのままでいた。
それから、エッセイの棚へ向かった。
一冊の本を手に取る。
表紙はシンプルで、ある作家が書いた創作についてのエッセイだった。
書けない日々のこと、それでも机に向かい続けたこと、ある日言葉が戻ってきた瞬間のことが、静かな文章で綴られている。
男性のところへ戻り、差し出した。
「書くことについて書いた本です」
男性は受け取り、表紙を見た。
裏表紙を返す。少し読む。また表紙に戻す。
「娘が、読んでくれますかね」
「分かりません」
栞は答えた。
「ただ、書けない時間を知っている人が書いた本です」
男性はもう一度、裏表紙のあらすじを読んだ。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「これを持っていきます」
少し間を置いてから、続けた。
「図書館の本ではなく、買って渡したいので、書名だけ教えてもらえますか」
栞は本のタイトルと著者名を、紙に書いた。
男性はそれを受け取り、丁寧に折って鞄に入れた。
「ありがとうございます」
男性は深く頭を下げ、出口へ向かった。
自動ドアが開く。
外の冷たい空気が、一瞬だけ流れ込んでくる。
栞は手の中の本を、棚に戻した。
タイトルと著者名だけを書いた紙は、もうない。
展示棚の片付けを再開する。
最後の一冊を元の棚へ戻した。
「贈る本」コーナーの跡には、何も残っていない。
栞は空になった展示棚を、指先で一度だけ撫でた。
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