第十九話:結末のない推理小説
十二月の声を聞いてから、図書館の暖房は一段階強くなった。
外の空気は乾いて冷たく、自動ドアが開くたびに、白い息が室内に混じってくる。
窓の外では、街路樹がすっかり葉を落としていた。枝だけになった木が、灰色の空を細かく切り取っている。
返却カウンターに、一人の男性が来た。
二十代後半だろうか。スーツのネクタイが、少しだけ緩んでいる。
一冊の本を差し出した。
政子が受け取る。タイトルを一度だけ見た。男性はそのまま、ビジネス書の棚へ向かった。またメモを取りながら、背表紙を一冊ずつ確認している。
しばらくして、政子が返却本をワゴンに積みながら、栞のそばを通った。
「返ってきたわよ」
政子はワゴンの上の一冊を、軽く持ち上げた。タイトルは『失敗ゼロの思考法』。派手な帯に、大きな文字が並んでいる。
「そうですか」
栞は短く答えた。
政子はそれだけ言って、奥の作業場へ消えた。
栞はビジネス書の棚へ目を向けた。
男性はまだメモを取っている。一冊抜き出す。パラパラとめくる。戻す。また別の一冊を抜き出す。
棚の前を行き来する足音が、規則的に響いていた。
答えを探しているというより、答えがあると信じて探し続けているような動き方だった。
栞は棚の整理を続けながら、男性の様子を視界の端に置いていた。
男性の手が、また一冊を戻した。少し間があって、同じ本をもう一度抜き出す。また戻す。
栞はワゴンを押して、男性の近くへ移動した。
「お探しのものはありますか」
男性は振り返った。
目の下に薄い隈がある。
「あ、いえ……なんか、どれもピンとこなくて」
男性は手にしていた本の背表紙を見ながら言った。
「仕事でミスをしてしまって。次は絶対に同じ失敗をしないようにと思って、色々読んでるんですけど」
少し間があった。
「どれを読んでも、なんか、足りない気がして」
栞は男性が手にしている本を一度だけ見た。
それから、ビジネス書の棚とは反対方向へ歩き出した。
男性は少し遅れて、ついてくる。
ビジネス書の棚から離れるにつれて、足音が少しだけ迷いを帯びた。
栞が立ち止まったのは、文学の棚の隅だった。
一冊の古い文庫を抜き出す。
表紙は色褪せ、古い洋館の絵が描かれていた。
長い間、誰にも手に取られなかった本の、静かな重みがあった。
「推理小説です」
栞は男性に差し出した。
「この本には、結末がありません」
男性は受け取りながら、表紙を見た。
「結末が……ない?」
「はい。途中で終わっています」
男性は戸惑った顔をした。
「それって、欠陥品じゃ……」
「そういう本です」
栞はそれだけ言った。
男性は古い文庫を、一度だけ栞に返そうとした。
手が途中で止まる。
「……気持ち悪くないですか?」
栞は答えなかった。
男性はしばらく、表紙を見つめていた。
裏表紙を返す。あらすじを読む。また表紙に戻す。
もう一度、栞を見た。
栞は何も言わない。一歩だけ引いている。
男性は視線を本に戻した。
小さく息を吐く。
「……借りてみます」
貸出カウンターで手続きをする。
ピッ、という短い音が鳴る。
「返却は二週間後です」
男性は本を鞄に入れた。出口へ向かいながら、一度だけ鞄を見下ろした。
中に何が入っているか確かめるような、あるいは確かめても仕方ないと気づいたような、そんな動作だった。
自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込む。白い息が、一瞬だけ室内に漂った。
閉まると、暖房の温度が戻った。
政子は手を止めずに、一度だけ栞を見た。
それから、また作業に戻った。
栞は男性が去ったあとの棚を見た。
『失敗ゼロの思考法』が、ワゴンの上に残っている。
表紙の大きな文字が、蛍光灯の光を反射していた。
栞はその本を手に取り、元の棚へ戻した。
背表紙を一列、指先で整えた。
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