第十八話:途中から始まる物語
十一月の終わりの図書館は、暖房の温度が少し高めに設定されている。
外の冷たさと室内の温度差で、入口付近のガラスが薄く曇っていた。
文庫本の棚の前に、一人の女性が立っていた。
四十代後半だろうか。きちんとした格好をしているが、どこか疲れが滲んでいる。
一冊抜き出す。裏表紙を見る。戻す。
その動作が、ゆっくりと繰り返されていた。
本を探しているというより、棚の前に立つ理由を探しているように見えた。
女性の左手が、背表紙をなぞる。
薬指に、少しだけ色の違う部分がある。
日焼けの跡というより、長い間何かがそこにあった痕跡のように見えた。
栞は近くの棚の整理をしながら、その様子を視界の端に置いていた。
女性の手が、また一冊を抜き出す。
今度は、しばらく表紙を見つめたまま動かなかった。
「お探しのものはありますか」
栞が声をかけると、女性は我に返ったように顔を上げた。
「あ……昔、よく読んでいたジャンルがあって。また読もうと思って来たんですけど」
女性は手にしていた文庫を戻しながら、続けた。
「なんか、どれも手が伸びなくて。昔はあんなに好きだったのに、今さら読めるのかなって」
少し間があった。
「色々、変わってしまって」
それだけ言って、女性は視線を棚に戻した。
何が変わったのかは、言わなかった。
栞は女性が戻した本の背表紙を、一度だけ見た。
それから、少し離れた棚へ向かった。
その棚の下段に、一冊の文庫が挟まっていた。
背表紙は少し色褪せている。上下巻ものの、下巻だった。
栞はそれを手に取り、女性のところへ戻った。
「こちらはいかがですか」
女性は受け取り、表紙を見た。
「これ、下巻ですよね。上巻は?」
「こちらの図書館には、下巻からしかございません」
女性は少し戸惑った顔をした。
「上巻を読まないと、話が分からないんじゃ……」
「途中から始まることになります」
栞はそれだけ言った。
女性はしばらく、下巻の表紙を見つめていた。
ふと、左手に視線を落とす。
薬指の、色の違う部分。
わずかに指先が動いた。
それから、もう一度本に視線を戻す。
「借りてみます」
貸出カウンターで手続きをする。
ピッ、という短い音が鳴る。
「返却は二週間後です」
女性は本を鞄に入れながら、ふと言った。
「……、どこかで見つかるといいんですけど」
「そうですね」
栞は短く答えた。
女性は出口へ向かった。
自動ドアが開き、外の冷たい空気が一瞬だけ流れ込んでくる。
閉まると、暖房の温度が戻った。
栞は女性が立っていた棚を見た。
下巻が抜けた隙間が、一つだけ残っている。
栞はその隙間を、しばらく見ていた。
それから、隣に並ぶ背表紙を一列、指先で整えた。
隙間は、そのままにした。
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