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第十七話:読めない言語の絵本

 十一月の雨は、音が細い。

 窓を伝う水滴が、ガラスの向こうの街を滲ませていた。


 閲覧スペースの端に、一人の女性が座っていた。

 濃紺のジャケット、きっちりと結われた髪。鞄は床に置かず、膝の上に置いている。

 テーブルの上には何もない。本も、スマートフォンも。

 ただ、窓の外の雨を見ていた。


 栞(しおり)は返却本をワゴンに積みながら、その様子を視界の端に置いていた。

 女性は微動だにしない。背筋が伸びたまま、視線だけが窓の外を追っている。

 ただ、膝の上の鞄を握る指が、少しだけ力んでいた。


 栞がワゴンを押してその近くを通ったとき、女性が顔を上げた。

 でも何も言わなかった。

 視線が、また窓へ戻る。


 しばらくして、また近くを通る。

 今度も顔を上げる。口が少し開く。

 でも言葉は出てこなかった。

 視線が、また窓へ戻る。


 三度目に通りかかったとき、女性はようやく口を開いた。


「すみません」


 低く、落ち着いた声だった。言葉を選び慣れた人の声だと、栞は思った。


「何かお探しですか」

「……こんなことを、司書さんに聞いていいのか分からないんですが」


 女性は少し間を置いた。


「探しているものが、何なのか分からなくて」


 栞は女性の向かいの椅子を引き、腰を下ろした。

 正面に座る、ということは、めったにしないことだった。

 女性は少し驚いた顔をしたが、すぐに視線を窓へ戻した。


「言葉を扱う仕事をしているんです」


 ぽつりと、言った。

 それがきっかけだった。

 堰を切ったように、言葉が出てきた。

 学生の頃は本が好きで、言葉で人を助けたいと思っていたこと。その通りの仕事に就いて、依頼人のために言葉を尽くしてきたこと。でもいつの頃からか、言葉が道具になっていったこと。慎重に選んで、慎重に並べて、慎重に届ける。その繰り返しの中で、気がつけば何かが削れていたこと。最近は休日に本を開いても、言葉が頭の中で条文のように並ぶだけで、何も感じなくなってしまったこと。


 栞は何も言わなかった。

 相槌も打たない。ただ、そこにいた。


 女性は話しながら、少しずつ背筋が緩んでいった。

 膝の上の鞄を握る指も、いつの間にか力が抜けていた。

 雨音だけが、静かに続いている。

 しばらくして、女性は息を吐いた。


「……こんなに自分のことを話したのは、久しぶりです」


 自分でも驚いたような声だった。

 それから、少し照れくさそうに笑う。


「お仕事中に引き止めてしまって、すみません」

「いいえ」


 栞は立ち上がり、児童書コーナーへ向かった。

 棚の下段から、一冊の絵本を取り出す。

 表紙には、見慣れない文字と、色鮮やかな絵が描かれていた。

 女性のテーブルに、それを置く。


「読めない言語で書かれた絵本です」


 女性は表紙を見た。


「文字の意味は分かりません。ただ、絵だけがあります」


 女性は絵本を手に取った。

 ページをめくる。

 見慣れない文字が並んでいる。でも絵は、色彩だけで何かを語っていた。


 女性の指が、一枚のページで止まった。

 鮮やかな青と、細い線だけで描かれた木。


 何も言わなかった。

 ただ、そのページを見ていた。


「借りられますか」

「もちろんです」


 貸出カウンターで手続きをする。

 ピッ、という短い音が鳴る。


「返却は二週間後です」


 女性は絵本を鞄に入れた。

 膝の上ではなく、床に下ろした鞄に。


 出口へ向かう女性の背中は、来たときより少しだけ丸みを帯びていた。


 栞は女性が座っていた椅子を、元の位置に戻した。

 テーブルの上には、何も残っていない。


 窓の外では、まだ雨が降り続いている。

 栞は返却本の整理に戻った。

 ワゴンを押す音が、雨音に混じって、静かに響いた。


お読みいただきありがとうございます!


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