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現代冒険者のすゝめ ~高校受験に落ちた僕、冒険者になってみた!~  作者: あっかんべー
第3部:深層と蛙と痛み

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第72話 彼女の焦燥

別視点です。

※別視点


うちは、家に帰るまでずっと笑っていた。

電車の中でも、改札を抜ける時も、住宅街の細い道を歩く間も、ずっと。


笑い続けることが、染み付いていた。

誰かに見られているかもしれない。


父の部下が、どこかで見ているかもしれない。

だから笑うしかないのだ、明るく、普通に、何でもない顔で。


家の玄関を開け、鍵を閉め靴を脱いだ。

それで、ようやく笑うのをやめられる。


廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。

頭の中で、あの声がまだ響いていた。


「……アルディス。」


あの子が碑文を読んで口にした名前。


そして口にしたその瞬間の、あの子の顔。

少し遠くを見つめる目…いや現実じゃない場所を見ているような、あの目。


うちには分かってしまった。

分かりたくなかったのに、分かってしまった。


あの名前を、あの子は知っていた。

初めて聞く言葉として反応していなかった。

体が、先に知っていたのだろう。

それは、見ていれば分かった…分かってしまったんだ。


「……っ。」


廊下の壁に、背中を預けた。

力が抜けて、そのままずるずると座り込んだ。


膝を抱えた。

頭の中が、うるさかった。


閉門衆のことは、ずっと知っていた。

父が何をしているか、組織が何を目的としているか、全部ではないけれど、輪郭は知っていた。


異世界アルカディアから来た人間たちが作った組織。


目的は、帰ること。


――そして、もう一つ。

  王を、異世界に返さないこと。


そう、王がいれば、話が変わる。

父はそう言っていた。


王が見つかれば、帰ることよりも、王を処分することが最優先になる。


王さえ消せば、帰れる。

だから、王は邪魔なのだ。


邪魔な存在は、どうなるか?

うちは、そこまで考えて、頭を振った。


考えたくないっ!考えたくないっ!考えたくない、よ……。


でも、頭は勝手に続きを考えてしまう。

あの子が、もし王だったら?

あのアルディスという名前が、あいつの異世界での名前だったら?父に知られたら?…父は、どうするか?


「……っ、やめて。」


声に出した。

誰もいない廊下に、その声が消えた。


……知らない、分からない。


まだ確定したわけじゃない。

まだ碑文に名前が書いてあっただけだ。


あの子が王かどうか、まだ分からない。

まだ、怪しいだけ…。


何が「アルト君が遠くに行っちゃう気がして。」だ。


でも、あの言葉をあの子に言った時、言葉にならない本当の意味は別にあった。


本当は遠くに行く、どころなんかじゃない。

殺されてしまうかもしれない。

閉門衆の手で…いや、父の手で…。


自分が止められなかったら?自分が黙っていたら?

そう考えた瞬間に、胃の奥がぎゅっと締まり胃液が喉から上がってくる。


「うぉえ……。」


嫌だ。

そんなの、嫌だ。

あの子はただ、友達と一緒にいる時が一番楽しそうで、ぎこちないくせに優しくて、強がっているくせに怖がっていて、でも前に進もうとしていて…。

ただ、そういう子なのに。


「……っ。」


目の奥が熱くなってくる。

泣かないちゃいけない…。

うちに泣く資格なんてない…。

うちが何とかしなくちゃ…。

でも、こんなことあの子に知られたくない…。


彼女はずっと、泣くことが許されない場所で生きてきた。

当たり前だが、父の前では泣けない。

学校でも泣けない。誰かに本当のことを話せない。話したら、誰かが傷つく。


だからうちは笑う。

笑い続けるしかできないんだ。


「……どうしよう。」


声に出した。

答えを持っている人間は、この家にいなかった。

どうすればいい?黙っていれば、あの子が危ない。でも、父に何か言えば、それはそれで処分されてしまう。


話せる人間がうちにはいない。



……いや、いる。

一人だけ、は思い浮かんでしまった。


でも、話せない。

あの子には、話せない。

あの子を巻き込みたくない。

あの子に、自分の家のことを知ってほしくない。

あの子の前だけは、普通の自分でいたい。

だから、話せない。


「……馬鹿みたい。」


自分に向かって言った。

本当に、馬鹿みたいだ。

好きな人を、守りたい。

でも守るための手段がない。黙っていることが守ることになるのか、それとも逆なのか、どちらかも分からない。


ただ、一つだけ分かることがある。

あの子が笑っている場所を、守りたい。

同級生たちと一緒に、馬鹿みたいなことで笑っている、あの場所を。

あの場所だけは、絶対に壊したくない。


「……どうすれば、いいんだろう。」


廊下の天井を見上げた。

答えは、考えても考えても浮かんではこない。


スマホが鳴った。

画面を見ると、あいつからだった。


『今日はありがとうございました。無事に帰れましたか?』


見た瞬間に、胸が痛くなった。

こういう子なのだ。

ちゃんと、確認してくれるし、心配してくれる。

それが、余計にうちの心を痛めつける。


しばらく、スマホを持ったまま動けなかった。

それから、返信を打っていく。


『無事だよ。ありがとう。今日も楽しかったね。また来週ね。』


送信して、スマホを胸に当てた。

嘘をついた。

楽しかったのは本当だ。

でも、それだけじゃなかった。


怖かった…ずっと怖かったのだ。

あの子が碑文を読む声を聞きながら、ずっと怖かった。これで、あの子は王である可能性が高くなってしまった。これだけは隠さなければいけない。


「……うち、弱いな。」


誰に言うでもなく、呟いた。

廊下に座り込んだまま、しばらくそのままでいた。


スマホがまた鳴った。


『じゃあ来週も楽しみにしてます。ヒナさんも無理しないでください。』


また、胸が痛くなった。

無理するなと言ってくれる人を、一番傷つけてしまうかもしれないことに。


「……っ、バカ。」


誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。


あの子へ?

自分へ?

それとも父へか?


全部、かもしれない。

彼女はようやく立ち上がった。


部屋に行って、着替えて、夜ご飯を食べて、寝る。

明日も普通に学校に行く。

普通に笑う。

普通に振る舞う。


それしか、今の彼女にはできなかった。

だけど、一つだけ、決めた。


何か方法を、考える。

あの子を守れる方法を。


誰にも頼らずに、自分だけで。

答えがどこにあるかは、まだ分からない。


でも、探すことだけは、やめない。

それだけを決めて、彼女は廊下の電気を消した。


暗くなった玄関に、スマホの画面だけが光っていた。

――ママ…。

――ふふふ…もう少しね。


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