第71話 碑文
週末の渋谷は、いつも通り人が多かった。
住宅街を出た瞬間に、人の波に飲まれそうになる。ダンジョンができてからも、渋谷という街の賑わいはあまり変わっていない。
むしろ、ダンジョン関連の店や施設が増えたことで、以前より栄えているくらいだ。
待ち合わせ場所に着くと、リオさんが先に来ていた。
「……田中さん、おはようございます。」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
リオさんはいつもと同じく、落ち着いた印象だった。シンプルな服装に、調査用の小さなバッグを持っている。碑文の記録用に、ノートとペンも入っているらしかった。
……これからダンジョンに行くんだけどなぁ。
装備は…なしかぁ。今日は護衛をすればいいのかな…?
「ヒナさんは?」
「もうすぐ来ると思います。」
少しして、ヒナさんが駅の出口から出てくるのが見えた。
「……おはよう、アルト君…それにリオさんも。」
「おはようございます、白川さん。」
「おはようございます、ヒナさん。」
ヒナさんはいつも通り、そう聞こえた。
笑っているし、声のトーンも普通だ。
だけど、何かが違う…?
うまく言葉にできないけど、ただ、どこかがいつもより落ち込んでいるような…?
「サクラさん、今日は来られないんですね。」
リオさんが言った。
「えっあ、うん、用事があって。残念だけど。」
「また今度、ですね。」
「そうですね。」
ヒナさんが笑った。
それも、いつも通りの笑いだった。
だけど、僕の目には、その笑いの少し後ろに何か別のものが見えた気がした。
何なんだろう?と思いながらも、僕たちは渋谷ダンジョンの入口へ向かった。
◇
「封鎖解除、本当に良かった。」
ダンジョンの入口を抜けながら、ヒナが言った。
「ここ、閉まってる間ずっと気になってたんだよね。」
「マグマトードの件がなければ、もっと早く来られたんですけどね。」
「しょうがないよ。……それより、リオさん。今日は碑文の調査が目的でしたっけ?」
「はい。田中さんにもご協力いただけると助かります。」
「もちろん。」
一層は、以前と変わりなかった。
封鎖されていた期間があったおかげか、魔物の数が少し多い気がしたが、それほど問題にはならなかった。
ヒナさんが前衛で崩して、リオさんが補助して、僕が仕上げる形でさくさく進んでいく。
「……田中さん、フランベルジュ、もう慣れましたか。」
リオさんが歩きながら言った。
「まだ完全には。でも、ナイフより手に馴染む気がします。」
「炎の性質を持っていますからね。田中さんの魔力と相性がいいのかもしれません。」
「……そうかもしれないです。」
「……あの短剣、見せてもらえますか?」
ヒナさんが横から言った。
僕はフランベルジュを腰から外して渡した。
ヒナさんが、両手で受け取って、光にかざした。
因みにまだ、召喚できることは伝えていない。
だって、召喚すると喧嘩するし、片方だけ召喚すると片方が拗ねてしまうから…。
現在は、武器の中で反省させている。
「……綺麗な刀身だね。波打ってる。」
「フランベルジュっていう形なんです。職人さんが作ってくれて。」
「アクリさん?」
「はい。」
ヒナさんは少しの間、刀身を眺めていた。
それから、僕に返した。
「……大切にしてね。」
「もちろんです。」
その一言だけだった。
それだけなのに、なぜかその言葉が、少し重く聞こえた。
「ヒナさん、大丈夫ですか?」
つい聞いてしまった。
ヒナが、ちょっと目を丸くした。
「……え、何が?」
「なんか、今日、いつもより少し……。」
「…元気ないように見える?」
「……少し。」
ヒナさんは少しの間、僕を見ていた。それから、笑った。
「ちゃんと見てくれてるんだね、アルト君は。」
「……はい。」
「大丈夫だよ。ちょっとだけ、考え事してるだけ。」
「……そう、ですか。」
「うん。」
それ以上は聞かなかった。
ヒナさんが話したくないなら、聞かない。
話してくれるまで待とう、その方がヒナさんにとっていいと思うから。
◇
二層への階段を下りた先、少し進んだところに、それはあった。
通路の壁の一角、他の壁とは明らかに違う石材が使われているところ。表面が滑らかで、光の反射が違う。
碑文だった。
これを見るのもとても懐かしいなぁ。
つい最近見たばっかなのに、色んなことがありすだよね…。
「……ここです。」
リオさんが、立ち止まった。目が輝いていた。
ノートをバッグから取り出して、構える。
「…それで、その、田中さん、読めますか?」
「……読んでみます。」
近づいた。
壁に刻まれた文字を見た。
前に来た時からまた変わっていた。
……やっぱり、文字の量が増えてる…。
前は「帰還者よ、門はまだ開いている」から始まっていたものが、今日は冒頭から違っていた。
「……読みます。」
息を吸って、声に出した。
【王は帰ってきた。
強き意志と仲間を携え、帰ってきた。
我らは祝福する、王の帰還を。
愛しき、我らが王――】
――っ!?
そこで、手が止まった。
最後の一行に、名前と思しき文字があったから。
今まで碑文には、名前など出てきたことがなかった。
ただ「王」と呼ばれていた。
だけど今日は違った。
「……アルディス。」
声に出した瞬間、頭の中で何かが動いた。
「……っ。」
景色が、少しだけ揺れ頭痛がする。
気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪いっ!
目を閉じていないのに、別の場所が見えた。
大きな城だった。
夜空の下、無数の松明が燃えていた。
遠くで誰かが叫んでいた。
戦の声か、あるいは歓声か、どちらか判断できなかった。
手に、剣を握っている感触があった。
鎧の重さが、肩にある感触があった。
そして、誰かの声が聞こえた。
『――陛下。』
誰かが、僕を呼んでいた。
陛下、と。
「田中さんっ!」
リオさんの声で、現実に引き戻された。
「……っ、あ、すみません。」
「大丈夫ですか?急に黙ってしまったので。」
「……大丈夫です。少し、ぼーっとしてしまって。」
「名前が書かれていたんですね?さっきの、アルディス、という名前が。」
「……はい。」
リオさんの目が、興奮で輝いていた。
「田中さん、これは重要です。今まで碑文に人名が出てきたことは、どのダンジョンでもなかったはずです。もしかしたら、これが重要な名前なのかもしれません。」
「……そうかもしれないですね。」
「記録します。少しだけ待ってください。」
リオさんがノートに碑文を書き写し始めた。
僕はそちらに背を向けながら、さっきの感覚を反芻していた。
城と剣と鎧とあの歓声……。
それに「陛下」という呼びかけ。
夢とは、少し違うのだろう。
夢はいつもぼんやりしていて、形がはっきりしない。だけどさっきのは、違った。
でもさっきのあれはもっとくっきりしていた…。
まるで、本当にそこにいたみたいな――
「アルト君。」
ヒナさんの声だった。
振り返ると、ヒナさんが僕を見ていた。
その目が、少し違った。
ヒナさんはいつも、僕を見る時に温かい目をしている。心配する目、笑う目、呆れる目、でも全部、温かい色をしている。
だけど今は、違う色が混じっていた。
どうしたんだろうか?
「……ヒナさん?」
「……ねえ、アルト君。」
ヒナが、少し声を落として言った。
リオさんに聞こえない音量で。
「その名前、どこかで聞いたことある?」
「……少しだけ。」
「少しだけ、か。」
ヒナが、小さく息をついた。
「……そっか。」
「ヒナさん、何か知ってるんですか?」
ヒナさんは少しの間、何も言わなかった。
それから、首を横に振った。
「……ううん、何でもない。」
「……本当に?」
「本当に。」
ヒナさんが笑った。
でも、その笑いは今日一番、薄くカラカラと乾いていた。
「……なんか、アルト君が遠くに行っちゃう気がして。」
「……どういう意味ですか?」
「分からない。ただ、そんな気がして。」
ヒナは、自分でも答えが分からないという顔をしていた。
だから僕も、それ以上聞けなかった。
「……行きませんよ。どこにも。」
「……うん。」
「ヒナさんたちがいるから。」
ヒナさんが、また笑った。
今度は、少しだけいつものヒナさんに近かった。
「……そっか。じゃあ、それでいいや。」
「田中さん、ありがとうございます。書き写せました。」
リオさんが振り返った。
「アルディスという名前、今後の研究に重要な手がかりになりそうです。父の残した資料にも、この名前が、もしかしたら出てくるかもしれない。」
「……リオさんのお父さんの資料に?」
「はい。帰ったら確認してみます。」
リオさんは嬉しそうだった。
その横で、ヒナさんは通路の奥を見ていた。
何を考えているのか、僕には分からなかった。
だけど、ヒナさんの横顔が、今日初めて、本当に疲れているように見えた。
「……戻りましょうか。」
「そうしましょう。」
「うん。」
三人で、来た道を戻り始めた。
通路の壁に刻まれた碑文が、後ろで静かに輝いていた。
――アルディス
その名前が、頭の中でずっと響いていた。
知らないはずなのに、知っている。
不思議な感覚……。
それが自分の名前のように、当たり前のこととして認識できたことは胸に秘めておこう。
きっと、気味悪がられてしまうから。
◇
ダンジョンを出ると、もう夕方になっていた。
渋谷の街が、オレンジ色に染まっていた。
「今日はありがとうございました。」
リオさんが、深く頭を下げた。
「重要な発見でした。また同行させてもらえると嬉しいです。」
「もちろんです。」
「では、私はこれで。帰って資料を確認します。」
リオさんは足早に駅の方へ向かっていった。
ヒナさんと二人になった。
「……どうする?どこか寄る?」
「ヒナさんが行きたいところがあれば。」
「ん~…。」
ヒナさんが少し考えて、首を横に振った。
「……今日は帰ろうかな。ちょっと疲れちゃった。」
「そうですか。」
「うん。」
駅の方へヒナさんが歩き出した。
「……アルト君。」
「はい?」
立ち止まらずに、背中を向けたまま言った。
「また来週も一緒に行こうね。」
「……もちろんです。」
「……約束ね。」
「約束します。」
ヒナはそれ以上何も言わずに、夕暮れの人混みの中へ入っていった。
金色の髪が、オレンジ色の光を受けて揺れていた。
僕はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
その背中が、僕には小さく…今にも消えてしまうんじゃないかと思うほどに寂しそうに見えた。
――今回は、無理だったか。
――むむむ…。気を付けよ、アルト…。
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