第68話 間幕 ―― 『檻』
※別視点
東京都心、高層ビルの最上階。
窓の外には夜の東京が広がっており、無数の光が煌めいて、まるで地上に降りた星空みたいに見える。
きれいな景色だと、普通の人間なら思うだろう。
でもその窓の前に立つ男は、一度もそう思ったことがない。
「……報告が遅い。」
男は、窓を背にして言った。
声は低く、静かで、感情の色がなかった。50代に差し掛かった顔は整っていて、仕立てのいいスーツが似合っていた。表に出れば、誰もが一流企業の社長と認識する。この国のダンジョン関連事業の大半を牛耳る、◯◯グループの頂点に立つ男だ。
だが、ここでは表の顔じゃない。
「……申し訳ございません。」
部屋の中央に、スーツ姿の男が膝をついていた。
額に汗が滲んでいた。
「新宿ダンジョン作戦の件です。転移結晶の使用は成功しました。ただ、標的の宝魔槍の奪取は——」
「失敗した、ということだな…。」
「……はい。」
「それだけではないだろ?」
社長は振り返った。その目が、部下を見た。
怒っているわけでも、失望しているわけでもない。壊れた機械を確認する時の目だ。
「転移結晶を無断で使用した者が出た。それも私の許可なく、ね。」
「……それは、現場の判断で――」
「言い訳は要らない。」
部下は黙りこんでしまう。
「宝魔槍の奪取失敗。転移結晶の無断使用。対象たちを未到達エリアへ転移させた。これで何が起きたか、分かるか?」
「……新宿ダンジョンの100層に関する情報が、外部に漏れる可能性が。」
「そうだ。」
社長はデスクへ歩いた。
上に一枚の報告書があった。それを手に取って、眺めた。
「新宿ダンジョン100層まで到達した者が出てきてしまった。それも複数人。しかも生還して、だ。」
「……想定外でした。あの階層に、壊し屋が――」
「伊藤のことは分かっている。」
部下の顔が、少し緊張した。
「……伊藤に対しては。」
「今は放置しろ。重傷を負っているなら、しばらく動けない。それよりも問題は別にある。」
社長は報告書をデスクに置いた。
「100層にも門がある。それはまだ誰にも知られてはいけない。まだ、時期ではない。」
「……承知しております。」
「100層の情報が外に出る前に、管理局内の協力者を通じて情報を統制しろ。生還者の証言は混乱した状況でのものだ。信憑性を薄める手段は分かるな。」
「……分かりました。」
「田中アルトについては。」
「……はい。」
「引き続き監視しろ。ただし、手は出すな。今は。」
「……承知しました。あの少年のスキルの件もありますし――」
「スキルだけではない。」
社長は、窓の外へ視線を戻した。
「宝魔槍が、この世界に出た。しかもあの時期に、あの少年の手に渡ってしまった。これは、偶然とは思えない。」
「……つまり。」
「…いや、何でもない。続けて監視しろ。それだけだ。」
「……了解しました。」
「それと。」
社長は、少しだけ声を低くした。
「今回の作戦で転移結晶を無断使用した者を特定しろ。特定したら、報告は要らない。…分かるな?」
部下の背筋が伸びた。
その背中には脂汗が浮かび上がってくる。
「……分かりました。」
「下がれ。」
ドアが閉まる音が、部屋に響いた。
社長は一人になった。
デスクの引き出しを開けた。
中に、一枚の古い写真があり、その写真には色あせていて、日本ではない空が写っていた。大地の色が違う。日の光の色も違う。あの世界の、あの空だった。
――アルカディア
閉門衆を作ったのも、白川グループを大きくしたのも、ダンジョン事業に手を出したのも、全部そのためだった。帰るために。
あの世界に、帰るために。
だかその前に、宿願を果たさなければならない。
「……もう少しだ。」
誰にともなく呟いて、引き出しを閉めた。
夜の東京が、窓の外で輝き続けていた。
◇
連絡が入ったのは、夜の10時過ぎだった。
彼女は自分の部屋のベッドに座って、スマホの画面を見ていた。送り主の名前を見た瞬間に、心臓が嫌な音を立てた。
友達からだった。
『聞いてる?あの子、また入院したって。』
読んだ瞬間に、頭の中が真っ白になった。
入院…。
あの子が、また入院した。
画面を握りしめたまま、動けなかった。
ベッドから立ち上がって、また座って、また立って。
落ち着けって思うんだけど、落ち着けない。
手が震えているのが分かった。
でも一番最初に浮かんだのは、安堵だった。
入院した、ということは、生きている。
その事実が、どれだけ彼女を救ったか。
『詳しいことは分からないけど、新宿ダンジョンで何かあったらしくて。命に別状はないって聞いたよ?』
続けて友達からメッセージが来た。
新宿ダンジョン。
彼女はその言葉を見て、唇を噛んだ。
知ってたのだ。今日、新宿で何かあることを。知っていた。あの人の部下たちが動いているのを、感じていた。転移結晶の実験を行う話も、聞こえてきていた。
止められなかった。
いつもそうだ。知っているのに、止められない。
うちはあの人の娘で、この家に生まれて、閉門衆がやっていることをずっと隣で見てきた。表では立派なお嬢様として、学校でそれなりに振る舞って、みんなに好かれるように、笑って。
でも、実際の彼女は、穢れている。
そう思うし、そう思われても仕方がないと考えている。
あの人が何をしているか知っていて、誰かが傷つくと分かっていて、それでも止めることができなくて、ただ黙って見ている。
それって、共犯じゃないの?
止めようとしても、あの人には届かなかった。何度も言った。間違ってるって、辞めたいって、言った。でも返ってくるのはいつも同じだった。「関係ない話だ」「分かっていない」「お前には関係ない」
関係ある。全部、関係あるの。
でも、うちは何もできなかった。
ベッドの上で膝を抱えた。
あの子のことを思った。
馬鹿みたいに真っすぐな、あの子の目。いつも。目の前のことに全力で、誰かのためにぐちゃぐちゃになって、それでも諦めなくて。
うちが初めてあの子と話した時、何だこいつって思った。それと同時に真っすぐすぎて、眩しすぎて、ちょっと馬鹿みたいで。そして、優柔不断だけど…その優しくて。
でもそれが、羨ましかった。
彼女はずっと、計算して生きてきた。
父のことがバレないように、閉門衆のことが知られないように、学校では明るく振る舞って、頼られるように、ちゃんとした人間に見えるように。
全部、演じてた。
演じていない時間なんて、ほとんどない。
でもあの子といると、なんか変な感じがする。演じるのが、少し疲れる感じがする。それって、たぶん、素に近い自分が出そうになるからだと思う。
だから怖いんだけど。
スマホを見た。
友達への返信を打とうとして、止まった。
何て送ればいいのかな…。
「よかった」って送ればいい?でも「よかった」の裏に、どれだけのことがあるか。
あの子が新宿ダンジョンで何かに巻き込まれたのは、あの人の作戦のせいかもしれない。
だから、あの子が新宿ダンジョンに行くと聞いて先に一緒に行って少しでも助けになれればと思い案内をした。
でも、やっぱり傷ついてしまったみたい…。
そう考えると、手が動かなかった。
しばらくして、ようやく返信を打った。
『教えてくれてありがとう。あの子、大丈夫だといいね。』
送信して、スマホを伏せた。
…嘘だ。
大丈夫じゃないって分かってて、「大丈夫だといいね」って打ったのだ。
綺麗に見せよう…いや、違う…自分を守ろうとしたのだ。
いつも、そうだ。
うちは、穢れている…。
そう思いながら、ベッドに横になった。
天井を見上げた。この部屋は広くて、綺麗で、何でも揃っていた。あの人の娘としてもらえるものは全部もらってきた。
でも、一つだけもらえなかったものがある。
普通の、なんでもない、自分の人生だ。
閉門衆を辞めたい。
でも辞めたとして、うちはどこへ行けばいい?
自分が知っていることを、どうすればいい?
あの人がやっていることを、黙ったまま生きていくのか。
それも、嫌だ。
どうすれば、いいんだろう。
天井を見たまま、考え続けた。
あの子の顔が浮かんだ。
あの子だったら、こういう時どうするんだろう?
たぶん悩んで、ぐちゃぐちゃになって、それでも結局、前に進もうとするんだろうなって思う。
馬鹿みたいに、真っすぐに。
「……羨ましいな。」
声に出して、呟いた。
誰もいない部屋に、その言葉が消えた。
スマホが光った。
友達から返信が来ていた。
『お見舞い、一緒に行こうね。』
画面を見て、少しだけ、泣きそうになった。
でも、うちは泣かない。
いや、泣いてはいけないのだ。
うちが泣くのは違うと思い、ぐっと堪えた。
でもその「一緒に行こうね」って言葉が、思ったより沁みた。
あの子のことを、心配できる。お見舞いに行ける。それだけは、今の彼女にも、できる。
それだけが、今夜の救いだった。
電気を消した。
暗くなった部屋で、目を閉じた。
あの人のこと、閉門衆のこと、彼女が知っていること。全部、解決の糸口が見えなかった。
でもとりあえず今夜は、あの子が生きていることだけを、よかったと思うことにした。
「…………誰かうちを助けて…。」
――私はずっと見守ってるよ。
早く気付いて…。
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